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2015年10月17日

春はあけぽの 夏はきゃりーぱみゅぱみゅ

master (2015年10月17日 10:18) | トラックバック(0)
erai.jpg秋の深まりを感じます。みなさま、お元気ですか。
こんにちは、穎才学院教務です。

今日、小学生5年生の国語の授業で内田樹の『先生はえらい』をとりあつかいました。毎週、コツコツと読みあわせをしています。今日は128ページからの「誤読する自由」という章を読みました。

古典といわれるほどの書物は、小説であれ哲学書であれ、読者に「すみからすみまで理解できた」と決して言わせないような謎めいたパッセージを含んでいます。

ふむふむ。私たちが知っている古典的な名作は、実際、どれも謎めいた表現を含んでいるものです。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」にしても、「つれづれなるままに日暮らし硯に向かひて、」にしても、何か変です。

小学生や中学生が清少納言の『枕草子』の冒頭を暗唱することがありますが、あれだって変ですよね。

「春はあけぼの」とか言われても、実際、「ハア??」という感じになりませんか。

この変なパッセージについて、本当はよくわかっていないのに、わかっていないことに気付かないふりをしているという日本人は、多いのだと思います。

春はあけぼの。やうやう白くなりゆく山際、少し明かりて、紫だちたる雲の細くたなびきたる。 

夏は夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほかにうち光て行くもをかし。雨など降るもをかし。 

秋は夕暮れ。夕日の差して山の端いと近うなりたるに、烏の寝所へ行くとて、三つ四つ、二つ三つなど飛び急ぐさへあはれなり。まいて雁などの連ねたるが、いと小さく見ゆるは、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた言ふべきにあらず。 

冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。 


この文章を読んで、私たちはそこここに何だか変な感じを見つけます。

どうして春は桜ではないのか。夏は夕方ではいけなかったのか。秋は月でないのはどうしてか。冬の夜だってなかなか趣深いものではないか。

そういったことを考えることも、ありえないことではありません。

その意味では『枕草子』の冒頭部分は無数の謎をたくわえている文章であるといえるでしょう。

私たちの脳は謎にであったときに、グルグルとまわりだします。

「わかる(=理解できる)」ことが必要なことも勿論ありますが、私たちには「よくわからない(=謎)」が必要です。

内田先生はこのように言っています。

もちろん「何を言っているのか、よくわからないだけの文章」を書いても誰も読んではくれません。逆に「何を言っているのか、すらすらわかる文章」を書いても、誰も二度と読み返そうとは思いません。

わからないけれど、何か心に響く。「たしかに、そうだ」と腑に落ちるのだけれど、どこがどう腑に落ちたのかをはっきりとは言うことができない。だから、繰り返し読む。

そういう文章が読者の中に強く深く浸透する文章なのです。

では、そのような腑に落ちるよくわからなさを含みこんだ文章とはどういう文章なのでしょう。それについても、内田先生は説明をしてくださっていました。

どうして、そういう文章が読者に強く、深く触れるのかというと、そこに読者に対する信頼があるからです。

聴き手の知性を侮らず、聴き手に対しておくりだされた言葉は、そうでない言葉と決定的に違います。

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