2015年9月29日
「『大学の国際化』名ばかりの懸念」(日経新聞報)
master (2015年9月29日 14:44) | トラックバック(0)9月28日、日本経済新聞朝刊に文部科学省がすすめる「スーパーグローバル大学」についての記事が掲載されました。
文部科学省のスーパーグローバル大学支援について苅谷剛彦オックスフォード大学教授は、国際化を担う「外国人教員等」の多数は外国での教育研究歴が1〜3年の日本人教員で、高度な授業を外国語でこなすのは心もとないと指摘する。
記事に拠れば、スーパーグローバル大学で指導を担当する「外国人教員等」の実態は、その大半が外国語での研究指導経験の浅い日本人で、「名ばかり国際化」と言わざるを得ない状態が危惧される、というのです。
苅谷先生は、「大学教育の国際標準」は講義で使用される言語に拠るのではなく、学生が講義に先立って読み込む「文献講読」の量や、授業外での「リポート執筆」数として数値化される、学生の学習の質にあると指摘しています。
私は、苅谷先生が東京大学大学院の教育学研究科におられたとき、先生の講義に参加したことがあります。大教室での講義でありながら、何か発言したい気持ちに駆られたのを覚えています。読むようにすすめられる本も確かに多かったし、求められるレポート数も少なくなかったと思います。とはいえ、確か私はその授業に全て出席したはずです。それは、先生から多くの学問的刺激を受けることができたからでしょう。そういうハイクオリティーな講義が大学や大学院で展開されるために、講義で使用される言語が英語であるということは、必要な条件ではありません。
そもそも大学(大学院)には、質の高い講義が保たれるのに充分な研究環境がに与えられていないという問題があります。
ここ10年程、大学(特に私立大学)の教員の研究環境は劣悪になったと言わざるを得ません。その一つの表れは、非常勤教員率の高まりです。
非常勤教員の研究内容や指導力に問題があるというのではなく、教員が大学(大学院)の研究室に常駐できないというのは、教員自身の研究にとっても、学生の研究にとっても、良い環境であるとは決して言えません。
「大学の国際化」を目指す以前に、大学(大学院)の研究内容や指導力の質を研究環境の面で支えることが困難になっているのです。
では、どうするのか。
私たちが身銭を切るしかありません。
もちろん、大学を支援する教育予算の一部は私たちの納税に拠っています。だから、「もう充分に金は払っている!これ以上、金は出せねー!」と声を上げるのか、さらに身銭を切って私たち自身の手で学びの環境を手近なところに作り出そうとするのか、どちらが大人のすることかは明らかです。
子供の成熟は、私たちにとって切実な課題です。それは、「子供」が多すぎる社会は機能不全に陥るからです。「子供」は「誰かがやらなければならないことは、きっと誰かがやるだろう」と考えます。でも「大人」は違います。「大人」は「誰かがやならければならないことなら、自分がやろう」と考え、行動するのです。
ですから、子供の成熟の如何を国家の文教政策の責任にのみ帰して、自分自身で何もしない、というのは、「大人」のすることだとは言えません。
私たちの世の中で「大人」が少しでも増えるように、まずは私たち自身が(「大人」ならば)身銭を切って学びの環境を作り出すことから始めなければならないでしょう。そして、案外それが一番健やかな方法かもしれません。
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