2015年9月15日
茂木健一郎先生のツイート
master (2015年9月15日 15:44) | トラックバック(0)茂木健一郎 @kenichiromogi
議論の実質を一切顧慮せず、「審議時間」がx時間あれば、論点が尽くされる、という形式主義は、講義の内容を一切顧慮せず、「授業時間」がx時間あれば、単位を与えて良いという形式主義と同じですね。どちらも、本質は反知性主義である。(2015年9月15日)
個人の政治的信条について、そのコンテンツの正否はここで論じられるものではありません。
とはいえ、「講義の内容を一切顧慮せず、『授業時間』がX時間あれば、単位を与えて良いという形式主義」が、本質的に「反知性主義」に由来する、ということについて、私たち教育関係者は自覚的でなければならないでしょう。
子供の成熟は、授業時間や学習時間によって担保されるのではありません。もちろん、それは教育や学習の「効率」がよければ授業時間や学習時間が短くてもよいということではありません。
子供の成熟にとって大切なものは、何か。
それは、いまから100年ほどまえに夏目漱石が『こころ』という物語を通して世に問うたことでもあります。
夏目漱石は「青年はどうやって大人になるのか」という主題を掲げて明治末年に多くの作品を書き残した。それは単に作品の「主題」が青年の成熟であったということに止まらず、漱石自身が「欲望の中心」となり、漱石を範とする成熟の運動に読者たちを巻き込むという仕方で遂行されたのである。
「おとな」とは、「『おとなである』とは、これこれこう言うことである」という事実認知を行う人のことではない。実際に「子ども」を「おとな」にしてしまったことによって、事後的にその人が「おとな」であったことが分かる、という仕方で人間は「おとな」になる。
だから明治40年、夏目漱石が東京帝国大学を辞して朝日新聞に『虞美人草』を執筆する決意をしたとき、漱石は近代日本最初の「大人」になったのである。
(内田樹『「おじさん」的思考』による)
子供の成熟にとって大切なものは「大人」です。
そして、教育は複数の教師によって担保される集合的営為です。たくさんの先生がいて、その中の誰かが「子供」にとっての「大人」となればよい。A先生がだめでも、B先生がOKならばそれで良い。ですから、学校がすべきことは、多様な先生たちによって構成する「教師団」を組織することです。それだけで良いのです。授業内容や指導法について、その巧拙を問う必要はありません。
塾においても、基本的に同じことです。松下村塾のようにスーパーティーチャーとスーパーステューデントに拠って成り立つ塾は、例外です。教えるのが上手い先生もいれば、そうでない先生もいて良い。勉強が好きな生徒もいれば、勉強が嫌いな生徒もいて良い。怖い先生もいれば、優しい先生もいて良い。
しかし、そういった学校や塾に欠かせないのは知性をリスペクトする空気です。
知性をリスペクトする人は、自分が無知であることをきちんと受け入れられる人です。知性をリスペクトする人は、必要な知性がどこにいけばアクセスできるものなのかについて知っている人です。知性をリスペクトする人は、教える側の人間をその気にさせることのできる人です。
正確に言うと、私たちの中には、知性的な自分も反知性的な自分もいるのです。矛盾した2つの性質が共存したり、葛藤したりしている。
その中で知性的な私にきちんと光を当ててやる。そして、反知性的な自分の面倒もときどき見てやる。強い自分だけでなく、弱い自分も生きて良いのです。
そんな風にして過ごすことが出来れば、私たちは、安全に楽しく健康的に生活することができるのではないでしょうか。こういうことを言う人はあまり多くありませんが、知性は私たちの生活に欠かせないものです。
世間の悪評に対して臆病な自分、かたくなに単一的な解釈に止まってしまう自分、人を教える気にさせられない自分、そういった弱い自分が健やかに過ごせるように、まずはそういう世界を手近から作り上げていきましょう。
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