2015年9月30日
幼児化する男たち
こんにちは、穎才学院です。突然ですが、私には4人の「師匠」がいます。どの師匠も私にとって有り難い、無くてはならない存在であります。
そしてそのひとりは、哲学者・武道家として知られる内田樹先生です。内田先生の言葉は、いつも私に力を与えてくれます。先生の言葉に耳をかたむけていると、私の生命力が賦活されるのです。ほんとうに師匠というのは、有り難い存在です。
さて、内田先生は「内田樹の研究室」(http://blog.tatsuru.com/)というブログを開いておられます。先生はそのブログで2010年に「幼児化する男たち」という記事(http://blog.tatsuru.com/2010/06/23_1444.php)を書かれました。
『Ane Can』 という雑誌の取材を受ける。
『Camcan』のお姉さんヴァージョンである。
このところ女性誌からの取材が多い。
どうしてだろう。
わからない。
インタビュイーの選考は先方のご事情なので、私の与り知らぬことである。
お題は「愛と自立」
う〜む。
「愛をとるか、自立をとるか」でお悩みの20代後半女性にアドバイスを、というご依頼である。
端的には「仕事をとるか、結婚をとるか」ということのようである。
つねづね申し上げているように、これは問題の立て方が間違っている。
内田先生によれば、親族の形成としての結婚は人間に欠かせない基礎条件のひとつです。
親族を形成しない(=結婚しない)という性質を特徴する人間社会は存在し得ません。当り前。
にもかかわらず、このような二者択一的な問いが前景化する。
当然それなりの理由があるはずである。
おそらく「オレをとるのか、仕事をとるのか、どちらかに決めろ」というような無法なことを言う男と付き合っているからではないかと推察される。
この問いに答えること自体はむずかしいことではない。
というのは、このような問いを発する男は、その当の事実によって「バカ」であることが明らかだからである。
「オレをとるか、仕事をどるか、どちらかに決めろ」というようなことを言う男に対しては「仕事」と即答するのが正解である。
バカといっしょにいても、この先、あまりよいことがないからである。
なるほど(笑)。
幼稚な自意識を持てあまし、自己承認欲求を満たすために他者に対して自己犠牲を強いる人間が増えてきたというのです。
内田先生に拠れば、日本の男性は「子供の価値観」を手放せず、「幼児」の状態にすすんでふみとどまっている、というのです。
日本の男子が血肉化してる「小学生時代の価値観」とは「競争において相対優位に立つことが人生の目的である」というものである。
これまでも繰り返し説いてきたことだが、「同学齢集団のコンペティションでの相対優位」が意味をもつのは、「ルールがあり、レフェリーのいる、アリーナ」においてだけである。
例外的に豊かで安全な社会においては、「競争に勝つ」ことが主要な関心事になることができる。
しかし、人類史のほとんどの時期、人類は「それほど豊かでも安全でもない社会」を生き延びねばならなかった。
そういった状況においては「競争において相対優位をかちとる能力」よりも、「生き残る能力」の方が優先する。
「競争に勝つこと」よりも「生き残る」ことの方がたいせつだということを学び知るのが「成熟」の意味である。
現代日本男子の幼児化は、深刻な社会問題である。
だとすると、大人は同世代の平均年収なんて気にしない。同業との競争などに関心が無い。もちろん、パートナーに「オレを取るか、仕事をとるか、どちらか選べ」なんて、阿呆なことは言わない。
そういう人が「家族になろうよ」と歌うから、その言葉に深みがあるのでしょうね。
福山雅治さん、ご結婚おめでとうございます。
福山さんは「独身の帝王」というよりも、「大人の男」だったのですね。素晴らしいパートナーと良き家族を形作られることでしょう。
9月29日は、福山さん・吹石さんだけでなく、千原ジュニアさん、大山加奈さんら、多くの結婚の知らせを聴くことができた日でした。みなさんの幸せを予祝いたします。
世界中の結婚をめざすカップルが良きゴールインを迎えますように。そして、そのためにもみなさんが成熟に向かわれますように。
2015年9月29日
「『大学の国際化』名ばかりの懸念」(日経新聞報)
9月28日、日本経済新聞朝刊に文部科学省がすすめる「スーパーグローバル大学」についての記事が掲載されました。文部科学省のスーパーグローバル大学支援について苅谷剛彦オックスフォード大学教授は、国際化を担う「外国人教員等」の多数は外国での教育研究歴が1〜3年の日本人教員で、高度な授業を外国語でこなすのは心もとないと指摘する。
記事に拠れば、スーパーグローバル大学で指導を担当する「外国人教員等」の実態は、その大半が外国語での研究指導経験の浅い日本人で、「名ばかり国際化」と言わざるを得ない状態が危惧される、というのです。
苅谷先生は、「大学教育の国際標準」は講義で使用される言語に拠るのではなく、学生が講義に先立って読み込む「文献講読」の量や、授業外での「リポート執筆」数として数値化される、学生の学習の質にあると指摘しています。
私は、苅谷先生が東京大学大学院の教育学研究科におられたとき、先生の講義に参加したことがあります。大教室での講義でありながら、何か発言したい気持ちに駆られたのを覚えています。読むようにすすめられる本も確かに多かったし、求められるレポート数も少なくなかったと思います。とはいえ、確か私はその授業に全て出席したはずです。それは、先生から多くの学問的刺激を受けることができたからでしょう。そういうハイクオリティーな講義が大学や大学院で展開されるために、講義で使用される言語が英語であるということは、必要な条件ではありません。
そもそも大学(大学院)には、質の高い講義が保たれるのに充分な研究環境がに与えられていないという問題があります。
ここ10年程、大学(特に私立大学)の教員の研究環境は劣悪になったと言わざるを得ません。その一つの表れは、非常勤教員率の高まりです。
非常勤教員の研究内容や指導力に問題があるというのではなく、教員が大学(大学院)の研究室に常駐できないというのは、教員自身の研究にとっても、学生の研究にとっても、良い環境であるとは決して言えません。
「大学の国際化」を目指す以前に、大学(大学院)の研究内容や指導力の質を研究環境の面で支えることが困難になっているのです。
では、どうするのか。
私たちが身銭を切るしかありません。
もちろん、大学を支援する教育予算の一部は私たちの納税に拠っています。だから、「もう充分に金は払っている!これ以上、金は出せねー!」と声を上げるのか、さらに身銭を切って私たち自身の手で学びの環境を手近なところに作り出そうとするのか、どちらが大人のすることかは明らかです。
子供の成熟は、私たちにとって切実な課題です。それは、「子供」が多すぎる社会は機能不全に陥るからです。「子供」は「誰かがやらなければならないことは、きっと誰かがやるだろう」と考えます。でも「大人」は違います。「大人」は「誰かがやならければならないことなら、自分がやろう」と考え、行動するのです。
ですから、子供の成熟の如何を国家の文教政策の責任にのみ帰して、自分自身で何もしない、というのは、「大人」のすることだとは言えません。
私たちの世の中で「大人」が少しでも増えるように、まずは私たち自身が(「大人」ならば)身銭を切って学びの環境を作り出すことから始めなければならないでしょう。そして、案外それが一番健やかな方法かもしれません。
2015年9月28日
木佐彩子アナに学ぶ「言葉のひみつ」

http://www.ayakokisa.com/より(スクリーンショット)
今日の東京都心は少し暑いくらいの天気です。みなさま、お元気ですか。
こんにちは。穎才学院教務です。
本日(28日)の『スタジオパークからこんにちは』(NHK総合)のゲストは、フリーアナウンサーの木佐彩子さんでした。
その中で木佐さんが、英語を話している時は日本語を話している時よりも「ずうずうしい性格」になる、という話をされました。
うーむ。言語学的に深みを感じる話です。
私たちは、「言いたいこと」がまずあって、それが言葉として表現されると考えがちですが、実際は違います。
人間は言語を扱うときに、自分で思っているよりはるかに多くの作業を無意識的に行っています。
私たちの脳は言語という仕組み(=構造)にあわせて、私たちの意識とは関係なく言語を認知します。
つまり、私たちの意識が脳の無意識的作業に先行して、言語をコントロールすることは不可能だということです。
ですから、先に「言葉」があって、「言いたいこと」というのは「言葉」が出来上がった後で初めて感じ取れるものだということになります。。少なくともそれが構造主義言語学以後(つまり100年前から)の理論的常識です。
ですから、海外で英語を習得した人が、英語を聴くと、本人の意識に先立って、その人が馴染んだ英語(英語にもいろいろあります。)に合わせて、その人の脳が無意識的作業を開始するのです。
木佐さんの場合は、木佐さんの脳が無意識的作業をおこなった結果、いつもよりも「ずうずうしい性格」だなと感じられるような言語的振る舞いを木佐さんの身体が選択するようになるのです。
つまり、私たちは話す言葉によって性格も考え方も変わる、ということです。
これは、日本語においても同じ。
例えば、共通語(東京の言葉)と関西弁(大阪の言葉)とを使い分ける日本人がいるとします。
その人は、共通語を話すときに比べて、関西弁を話し出すと妙に能弁になったり、声のトーンが上ったりさえするのです。
まるでキャラが変わったような感じが、聞いている人にはするでしょう。
関西弁も、大阪の言葉なのか、京都の言葉なのかで、それを使う人のキャラは変わるように感じ羅られます。大阪の言葉だって、それが「キタ」の言葉なのか、「ミナミ」の言葉なのか、「河内」の言葉なのかで、全然違います。話し手の性格が全く違って聞こえるはずです。
それは、京都の言葉が「はんなり(と嫌味っぽく)」と聞こえるから、河内の言葉が何だか「けんかっぱやく」聞こえるから、という音声的特徴にとどまるものではありません。京言葉を使えばそれに基づいたキャラに、河内弁を使えばそれに基づいた性格に、私たちの身体はモードの書き換えを行うのです。
大阪の「吉本新喜劇」には、「おんどれわりゃー、いてまうぞー」という表現を「こんにちは」の代わりのように使うキャラクターが登場します。
実生活で日ごろからそういう言葉使いをする人は、本当にそういう人になるんです。大阪のそーゆー「にーちゃん」または「おっちゃん」になります。
私たちの言葉遣いは、私たちの性格を決めるものです。
2015年9月27日
弱さを含みこめる寛容さ

https://twitter.com/gotch_akg より
こんにちは。穎才学院教務です。
日曜日ですが、記事を書きます。
どうしようもないところも、ろくでもないところも、なさけないところも、私たちにはそれぞれあって、魅力的なところ・素晴らしいところ・強靭なところと、そういう弱いところが共存しているのが私たちです。私たちは自分自身が強さと弱さを兼ね備えた、その意味で矛盾した存在であることを認めない限り、充分に成熟することはできません。
私たちは、ただ強いだけの存在になろうとすると、うまく生きることができません。自分自身を一色に染めることはできないのです。
それは社会についても、同じです。
「ASIAN KUNG-FU GENERATION」のギター&ボーカルである後藤正文さんの9月26日のツイートは、ほんとうにその通りだと思えるものでした。
2015年9月26日
小学生の塾選び

最近、小学生のお子様をお持ちの御家庭からご相談を受けることが多くなりました。
なので、ここでもそのお話をいたします。
中学受験を目指して塾を選ばれる際にポイントがあると思います。
まず、お子様の学校の成績をよく見てさしあげてください。
学校のお勉強はきちんと理解できていますか。
もし、学校のお勉強がいい加減になっているようでしたら、塾に通って学校より進んだ学習をするというのはご再考ください。
学力の不足のため学校のお勉強についていけていないのなら、学校のお勉強から見なおすべきなのは当然です。学校の教科書やドリルを使って、きちんとお勉強する習慣をととのえるべきでしょう。
また、学校のお勉強に興味が持てなくて、学校の成績がふるわないというのも、危ぶまれます。
学校のお勉強に興味が持てないというのが、勉強を侮っているということなら、大問題です。
「学校で勉強しないけど、塾で勉強する子供」というのは、危険です。余程の場合を除いて、勉強する場所や相手を選ぶ人というのは、勉強自体を楽しめていないから、そうなるのです。勉強自体を楽しめていない人は、やがて勉強しなくなります。
エジソンやアインシュタインが学校に馴染めなかったというようなエピソードを引用して、学校で勉強しないけど、塾では勉強するということを正当化する人が時々いますが、それは無理です。
エジソンやアインシュタインは塾でも勉強しません。彼らは自分で勉強する人なのです。
次に、お子様は本を読むのが好きですか?嫌いですか?
本を読むのが嫌いな子供は、母語としての日本語を上手に読めていない可能性があります。
確認するのは簡単です。日本語の文章の音読を聴いてあげてください。
もし、日本語が上手く読めていないとしたら、いきなり中学入試問題やその類題に取り組むというのは無理があります。
中学入試問題は、日本語の運用能力が高い子供が高得点をマークする問題です。これは国語に限らず、算数も理科も社会もだいたい同じです。
ですから、日本語が上手く読めていないお子様には、まずいっしょに日本語の文章を読んでくれるパートナーを探すところから始めてあげてください。
大人が本を読まないのに、子供に本を読めと言っても、それは無理というものです。
いっしょに本を読んでくれるパートナーが大切です。
最後に、お子様が通う塾の先生はお子様より大人(賢い)ですか?
年を取っていても、未熟な人はいますし、そういう人がいても構わないように出来ているのが世の中です。ですから、学校にも塾にも「ろくでもない先生」というのはいるものです。学校では先生を選ぶことができません。これはとても大切なことです。世の中には成熟した人も未熟な人もいるのだということを学校で知れるというのは、学校の大切な機能です。でも、塾はそれと違います。そこで勉強したいから行くところです。何だかわかないけど、そこにいくと楽しい。頭がグルグル回って、なんだか気持ち良い。だから行くのが塾です。
お子様が塾に通って、お子様より頭の悪い塾講師の立ち居振る舞いを見て、ガッカリするというのは、あまりにも気の毒です。
塾選びは、誰のためでもなく、お子様の成熟のために。
お子様の健やかな成長をご支援・祈願いたします。
2015年9月25日
成長する「場所」の物語としての『まれ』

東京都心は雨です。みなさま、急に寒くなりましたがお風邪など召していらっしゃいませんか。
こんにちは。穎才学院教務です。
いよいよ、今週でNHK連続テレビドラマ小説『まれ』が最終週です。明日9月26日が最終回。
(画像はHPのスクリーンショット。 http://www.nhk.or.jp/mare/より引用。)
最終週は「希空ウエディングケーキ」というタイトルで、物語の佳境が描かれています。
以下は内容に関する言及(いわゆる「ネタバレ」)がありますので、録画や「NHKオンデマンド」の利用などでドラマの視聴を楽しみにしている方は、視聴後にお読みになると良いかもしれません。
本日(9月25日)は、ついに「徹」(大泉洋)が帰ってきました。
『まれ』という作品を通して、登場人物はそれぞれ「能力」を持つものとして描かれています。
例えば、ヒロインの「津村希」(土屋太鳳)が持つ能力は、「味覚」と「集中力」。「希」はパティシエとして欠かせない優れた味覚を身に備えているのに加えて、何事にもこれと決めたら一点突破するのに必要な「集中力」を兼ね備えています。物語中で複数の「能力」を与えられたキャラクターは「希」と「池畑大悟」(小日向文世)の二人だけです。この「希」の天賦の能力が、ダークサイトに堕ちていたころの「一子」には、気になって仕方がなかったのでしょうね。仕方のないことだと思います。『まれ』という物語における「津村希」は、ハリーポッターシリーズの物語における「ハリーポッター」の立ち位置にいる人です。ハリーポッターシリーズの物語が、「ハリー」という少年の成長譚であるように、『まれ』と言う物語は「津村希」という少女の成長の物語であったのでした。
ところで、本作品を通して、ダメダメな人間として描かれ続けていたのが、「希」の父親である「津村徹」です。しかし、今週はついにその「徹」の能力が判明しました。
「徹」の能力は、メンター(導き手)としての力です。
「徹」は「希」が子供のころからずっと「希」を「世界一おいしいケーキを作る」という夢の方へ導いてきました。それは「徹」がそれと知ってしていたことではありません。横浜で買ってきたケーキを「希」が食べて、パティシエへの夢の階段を歩きはじめるのも、実際偶然ではありますが、「徹」がいなければありえなかったことです。
いつも「徹」は「希」を導いてきた。そのことに気付いたのは「大悟」でした。
「大悟」自身もメンター(導き手)としての力を持ったキャラクターです。メンターというのがわかりにくければ、師匠と言ってもいいですね。「大悟」は「希」の師匠です。物語内に登場する師匠キャラには、2つのパターンがあります。1つは、能力の高い師匠。もう1つは能力を持たない師匠です。「スターウォーズシリーズ」における師匠としてのジェダイたちは、前者にあたります。「大悟」は、ジェダイと同質の「強い師匠(メンター)」として物語内で振舞います。(よって必然的に「大悟」は「優秀なパティシエ」と「メンター」という2つの能力を兼ね備えているのです。)
「大悟」は、「希」を夢の階段の頂上に導くために心血を注いでいる人です。自分で出来るところまで引っ張って、最後は誰かにパスしようと思っている。(たぶん、「大悟」があてにしているのは、彼の師匠である「ロベール幸枝」でしょう。「希」のおばあちゃんです。)
そんな「大悟」だからこそ「徹」のことを理解できたのでしょう。そして今後も「徹」が「希」には必要であり、また「徹」にとっても「希」たち家族と暮らすのが良いと思わずにはいられなかったのだと思います。
そして、今日(9月25日)は「徹」の帰宅の日となりました。
まずは「希」の店に現われた「徹」。家族の中でいちばんおっとりとした「希」のところに最初に来るあたり、さすが心得ています(笑)。
そして「希」は「徹」に対して、あなたはここにいても良いのだ、と伝えます。
あなたはここにいても良いのだ。
これは極めて純度の高い愛の言葉です。
それは、やがて、
あなたがいなければ私は生きていくことができない
という最高純度の愛情表現につながる。
もし、全うな強い人間でなければ、家族のメンバーになることができないのなら、
私たち人間(ホモサピエンス)は、とうの昔に、絶滅しているはずです。
私たちは生き残ることを最優先の課題として進化し続けてきた。その結果、私たちが獲得したのが言語知性であり、家族や社会といった概念的制度です。
言葉は、私たちが楽しく、健やかに、安全に生きるために役立つよう使われるべきだと思う。
そして、家族や社会といった概念は、やはり私たちが幸せに生きていくためにあるのだと考えた方がいいと思う。
頭が悪くても、金が稼げなくても、うそつきでも、臆病でも、ここにいていいんだよと認められる。
それが家族です。
弱い人や未熟な人に対して「うちの子じゃありません!」ということは誰にもできない。
そういう人たちが生活することを認める場所が家族なのではないでしょうか。いや、そうなんです(笑)
『まれ』と言う物語は、ヒロインたちの成長の物語であったと同時に、
人間が生きるのに必要な「場所」の物語でもありました。
だから、『まれ』の最終回の重要なシーンは「希」にとっての大切な場所をめぐるものになるはずです。
その場所では、「徹」のような弱い人間にもあなたはここにいても良いのだという承認のメッセージが贈られる。
そして、近いうちに、「徹」はきっとこの言葉を聴くことになるでしょう。
「あなたがいなければ私は生きていくことができない」
そうしたときに、みんなは幸せになることができるのです。
2015年9月24日
ラグビーと「外国人」
連休が終わりました。東京都心は雨がちです。みなさま、いかがおすごしですか。こんにちは。穎才学院教務です。
昨日、生徒から質問をもらいました。
「どうしてラグビー日本代表には外国人がたくさんいるの?」
なるほど、お答えしましょう。
それは
「ラグビーがイギリスで生まれたスポーツだからだよ。」
ん??
はてなマークが浮かぶのも訳の無いことではありません。もっときちんと説明すると、
「イギリスは200年にわたり世界の覇権国家でした。イギリスの文化は世界を制したわけです。イギリスを母国とする人は、どこへいってもイギリス文化の担い手となることができます。さて、ラグビーはイギリス文化のひとつです。ということは、イギリスを母国とする人は、世界のどこへいってもラグビーの選手になれます。時代がしばらく進んで、ラグビーにおける最先端は、イギリスからニュージーランドやオーストラリア、南アフリカといったイギリスが支配したところに写りました。そうなると、そういったところのラグビー選手はラグビーという文化の最先端です。彼らがかつてイギリス人がそうだったように、世界のどこにいってもラグビーができるようになります。こうして、ニュージーランドや南アフリカの選手が世界中のチームに所属するようになったのです。」
ということですね。
ニュージーランド出身の選手がいまのラグビー日本代表に欠かせないのは、グローバル企業のCEOに英語圏出身の外国人経営者が好んで迎えられるのとよく似ています。
ラグビーというスポーツは、フットボール(=サッカー)というスポーツ以上に、極めて英語グローバルなスポーツであると言えるのです。
2015年9月23日
「本質的に考える人」たち、あるいは「身体で考える」人たち

連休最終日も東京都心は清々しい晴天です。みなさん、お疲れになっていませんか。
こんにちは。穎才学院教務です。
本日13時5分から14時5分まで、再放送として『SWITCHインタビュー 田中泯×挟土秀平』が放映されました。(画像はNHKホームページのスクリーンショット)
非常に興味深い内容でした。
印象に残っているのは、田中泯さんの「追い詰められてからの集中力」という表現と、「踊り」は人間が言葉を獲得するより前にあったコミュニケーション手段だ、という考え方です。
確かに、そうかもしれない。
私たちは言葉を使ってしかものを捉えられないというのが、ソシュール以来の言語学的常識です。
実際、その通りだと思います。
でも、人間が言語を獲得する以前に用いていたコミュニケーション手段もあるはずで、それが田中泯さんの言う「踊り」だとしたら…。
だとすると、泯さんは大脳の古いところ(大脳旧皮質)を使って身体を動かそうとしているのか…??
う〜ん、興味深い!!
とにもかくにも、番組を通して、田中さんも挟土さんも、物事を本質的に考える人であり、物事を身体で考える人なのだな、と強く感じました。
『SWITCHインタビュー 達人達(たち)』 毎週土曜 午後10時〜11時、おすすめです!
https://twitter.com/nhk_switch (番組公式ツイッター)
2015年9月22日
お子様の「学力」に不安が出たら…

ここのところ、お子様の「学力」についてご相談を受けることが続きましたので、ここでも少々お伝えいたします。
まず、前提です。
子供の学力低下は、子供の怠慢や教師の教育技術の低下、学校カリキュラムの欠陥などのせいではありません。
子供たちが積極的に学びから逃走している、と考えてください。
もちろん、そうでないかもしれませんが、そうかもしれないと考えることでしか、気が付かないこともあります。
この考え方は、教育学では常識です。佐藤学先生の『「学び」から逃走する子どもたち』は教育学的古典です。
子供が積極的に「学ばない」ということを選択している、ということを認めるのは、「子供」が大好きな親御さんや教師には難しいことです。そういった人たちにとって、「子供」は純粋無垢な存在であり、「学び」への意欲と可能性に溢れた存在だからです。
でも、本当にそうなのでしょうか。
私たち自身、反知性主義的振る舞いをみせる自分自身の存在を認めざるを得ません。
私たちは矛盾と葛藤を抱えた存在です。仮にそうだとしましょう。そうすると、私たちには知性を愛する一面も、知性を拒絶する一面も、その両面があると推測できます。
それでも私たちは上手く葛藤しながら生きていくわけですが、クレバーな人は知性的自己だけでなく、反知性的自己の面倒もきちんと見てあげるものです。学術的でない(それでいて反社会的でない)何かに思い切り打ちこんだり、芸術表現として先鋭的な、あるいはラディカルな振舞いをしてみせたりするのです。
アメリカ合衆国の歌手、レディ・ガガさんは非常にクレバーな方だと思いますが、しばしばきわめてアグリーな言動を大衆に示します。慈善活動や社会貢献に労を惜しまない一方で、セクシュアルなデザインの衣装で公の場所に登場したり、宗教的に過激な内容の歌詞を書いたりしています。
それは日本で1960年代にクレイジーキャッツのみなさんが担った役割でもあります。1970年代ならドリフターズ、1980年代なら『オレたちひょうきん族』の出演者たち、1990年代なら「笑う犬の〇〇」シリーズの面々や『クレヨンしんちゃん』の「野原しんのすけ」がその後継者です。
レディ・ガガさんから「野原しんのすけ」まで、ここで私が挙げたキャラクターたちは、その都度、学校PTAに「子供に見せたくない〇〇」としてやり玉にあげられる存在です。でも、こういったある意味で反知性的なキャラクターたちは、実際にはクレバーな人たちによって造形されたキャラクターであり、私たちが知性的生活を営む上で重要な基礎を与えてくれる存在であると言えるのです。
やはり、私たちは自分自身の中に反知性的側面があることを認めざるを得ません。そこからしか、私たちの知的成熟はあり得ないと思います。
とするなら、子供たちにおいても、彼らの中に反知性的側面があることを認めないわけにはいかないでしょう。大人の「身勝手な理解」というひとつの色で子供たちを染め上げるより、その方が余程、健やかなやり方だと思います。
そうだとしましょう。すると、私たちは子供たちの日常において、子供たちが学習から逃走していないかどうか、チェックするまなざしを持つことができます。
「この子、勉強しているふりだけしているのではないかな?」
「学校に行けば成績あがると思ってない?塾に行けば成績あがると思ってない?」
「色々な勉強方法について研究しているけど、実際のところ、手を抜いてるだけじゃない?」
色々な視点から子供たちを見ることができます。
そうすると、毎日静かに教室で机に向かっている子供が案外勉強していないことに気付きます。親の言いつけを守って塾に通っている子供が、ただ塾に行っているだけで実はたいして頭を使っていなかったということに気付きます。
そこではじめて、その子供は「勘違い」をしているのか、「学びからの逃走」をしているのか、私たちは2つの可能性について吟味することになるのです。「勘違い」をしているのなら、条理を尽くして説明してあげれば、彼らは学校や塾に行くこと自体が学習でないということに気が付きます。それでも学習の様子に変化がないなら、彼らは「学ばない」ということが「有益」であるという信条を持っていると推測できるのです。
もし、子供が「学ばない」ということが「有益」であるという信条を持っているなら、私たちにできることは何でしょう。
人間の信条を変えることができるのは、その人間本人だけです。
ですから、私たちがすべきことは、その子供の学習環境を知的なものにすることしかありません。それは私たちの側がまず知的になる、ということからはじまるものでしょう。
ここで言う学習環境というのは、もちろん学習机の機能や教室のデザインなどにとどまるものではありません。人間は交換を欲望する生き物ですから、学習が交換であると思えば、学習が欲望されるものに置き換わるかもしれません。その意味では、交換としてのコミュニケーションを行うパートナーの知的レベルが鍵を握ることになるでしょう。
幕末の私塾、松下村塾は長州萩城下の農村、松本村にありました。現存する塾舎は、木造平屋建ての小さなものです。その塾舎に多くの学生が集まったのは、どうしてでしょう。それは、そこでとりおこなわれる交換としてのコミュニケーションが楽しくて仕方がなかったからでしょう。
彼ら自身は、何かを学んでいたという意識はあまりなかったかもしれません。ただ、まだ見ぬ未来に向けて、膨大な量の言葉を交わし、議論を尽くした。そのコンテンツは政治学的・歴史学的見地から言えば、取るに足らぬものも多かったでしょう。
でも、彼らはそれが楽しかった。だから、毎日のように塾に足を運んだ。夜を徹して話し合った。そうしているうちに、文字が読めるようになった、外国語としての中国語の理解も進んだ、歴史について興味がもてるようになった。一度、その楽しみを味わってしまったら、塾が取りつぶされても、もう止められない。今度は、自分たちが仲間を募って、言葉を交わし合う、議論を深めるようになる。そうしているうちに、だんだんと身体の中にたくさんの言語表現がたくわえられていき、その言語を使って色々と複雑な思考が出来るようになった。中には、中国語の読み書きを身につけた経験を活かして、密かに英語を学ぶものが出た。その青年はやがてドイツ語も身につけた。優れた政治家として頭角をあらわすようになった。
例えば、長州の百姓の家に生まれた少年が、一国の宰相(総理大臣)まで昇り詰めたきっかけは、案外些細なものだったかもしれません。もちろん、全ての子供たちが政治家として成功する必要はありません。しかし、子供たちにとって知的な成熟のきっかけは、幕末の青年にとってのそれと同じです。
なんだかわからないけど、交換としてのコミュニケーションが楽しかった。そして、そのコミュニケーションが豊かな言語体系に下支えされた知的なものであった。
子供の知的成熟の条件はこれだけです。
2015年9月21日
祝日も開校しています!
東京都心は今日も晴天です。気持ち良いですね!みなさん、お元気ですか。
こんにちは。穎才学院教務です。

本日は祝日ですが、祝日も穎才学院は営業しています。いわゆる「シルバーウィーク」期間中で、学校によっては文化祭や体育祭が行われているようです。ご家庭によっては、お彼岸の折ですから、お出かけになることもおありのようですね。
穎才学院では、前もってご連絡いただければ、授業の振替が可能です。(当日の連絡はさすがに振り替え不能です。ごめんなさい。)今回の連休でも、振替制度を利用して、ご家庭の用事や学校の行事とお勉強をきちんと両立させる方たちが目立ちます。いいことだと思います。
お勉強も遊びも、身体的感覚を鋭く豊かにすることが大切です。
みなさん、健やかな連休をおすごしください!
2015年9月19日
民主主義をめぐるおはなし
東京都心では清々しい秋空がひろがっています。みなさま、連休の初日をいかがおすごしですか。9月から再開された学校も3週間がたって、生徒たちは授業などにもだいぶ慣れたころでしょう。
小学6年生と中学3年生は社会科の時間に「公民」として、世の中の仕組みについて、学びます。
いま子供たちにつたえたい民主主義をめぐるお話。3つのお話をいたしたいと思います。
まずは1つめ。
「みんしゅしゅぎ」ってなんでしょう。「しほんしゅぎ」とはちがうなにかなのでしょうか。「じゆうしゅぎ」というものがあるとすると、それは「みんしゅしゅぎ」とおなじなのでしょうか、ちがうものなのでしょうか。
「じゆうみんしゅとう」とか「みんしゅとう」とか「きょうわとう」とか、似たような名前の大人たちのグループが私たちの世界にはありますが、そのグループはたがいにどんなちがいがあるものなのでしょうか。
そもそも「民主主義」とは、どのようなものなのか。ここでは辞書で調べてみることにしましょう。
国民が主となって、国民全体の幸せのために、話し合って政治をしようとする考え方。自由・平等・人権の尊重をもととする。デモクラシー。(小学館『例解学習国語辞典』による)
人民が国家の主権を所有し、自らのためにその権力を行使する政治形態。デモクラシー。古代ギリシアの都市国家に始まり、一七、八世紀の市民革命によって一般化した思想。現代では、性事情だけではなく、広く人間の自由や平等を尊重する立場をいう。(大修館『明鏡国語辞典』による)
語源はギリシア語のdemokratiaでdemos(人民)とkratia(権力)とを結合したもの。権力は人民に由来し、権力を人民が行使するという考えとその政治形態。古代ギリシアの都市国家に行われたものを初めとし、近世に至って新革命を起こした欧米諸国に勃興。基本的人権・自由権・平等権あるいは多数決原理・法治主義などがその主たる属性であり、また、その実現が要請される。(岩波書店『広辞苑 第六版』による)
人民が権力を所有するとともに、権力をみずから行使する政治形態。権力が単独の人間に属する君主政治や少数者に属する貴族政治と区別される。狭義には、フランス革命以後に私有財産制と前提とした上で、個人の自由と万人の平等を法的に確定した政治原理をさす。現代では、政治の原理や形態についてだけでなく、社会集団の諸活動の在り方や人間の生活態度についてもいう。デモクラシー。(小学館『精選版 日本国語大辞典』による)
ひとつのことがらについて、複数の辞書を使って調べるというのは、学問の基本です。
今回4つの辞書の説明を重ねあわせてみると、何か浮かび上がってくることがらはありませんか。
もし、あるとしたら、それがいまのあなたにとって大切な民主主義的事柄なのでしょう。
私にとって大切なのは、民主主義において権力の行使は私たち人民によるのだ、ということ。力の強いひとはその力をつかって困った人を助ければよいし、頭の良い人はその頭脳を使ってやはり困った人を助ければよいでしょう。ということは、私たちは、私たちが所有する「権力」という力を、困っている誰かに向けて行使するべきだと言えるでしょう。それはただ単に社会的弱者に対してというだけにとどまりません。将来の私たちやこれから私たちの社会に加わる新しい世代に対して、それは同じです。弱者としての自分自身や未来の世代への支援としての力の行使が私たちには求められるのではないでしょうか。
2つめは70年ほど前にイギリスの政治家が言った言葉についてです。
It has been said that democracy is the worst form of government except all the others that have been tried. - Winston Churchill (ウィンストン・チャーチル) -
民主主義は最悪の政治形態らしい。ただし、これまでに試されたすべての形態を別にすればの話であるが。
少々まわりくどいこの言い方は、民主主義の大切な性質をうまく言い当てています。
この表現がまわりくどいように、民主主義と言う制度はそれ自体が非常にまわりくどいものです。
新しいことが中々きまりません。民主主義的議会政治においては、議論の内容だけでなく、議事進行の手続きが重視されます。これは端から見ていると非常にまどとっこしい。
でも、そのようなスピード感のない政治システムだからこそ、民主主義はゆっくりとものごとを取り扱わざるをえない政治形態をつくりだすのです。
私たちの世界にはさまざまな「正しさ」がありますが、そのコンテンツに関わらず、どのような「正しさ」に基づいたとしても、急激な社会変革は悲劇(たいていは大きな悲劇)をもたらします。
作家の村上春樹は、バルセロナ賞という文学賞の受賞スピーチで、そのことを「災厄の犬」という喩えを使って説明しました。
「正しさ」の程度に関わらず、急激な変化の要求は、私たちを不幸にするものです。そのような急激な変化の要請を発見したら、私たちはその「災厄の犬」から上手く身を守らなくてはなりません。
チャーチルという政治家が言ったように、民主主義という政治制度は、非常にまどろっこしいものでありながら、私たちの生活を「災厄の犬」から守ることを使命としていくれているのです。
そして3つめです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。「責任」は「鍋」とか「目覚まし時計」のように、実態的に存在するものではありません。でも、それが「ある」というふうに考えた方がいいと昔の人は考えた。それをどういうふうに扱うのかについて、エンドレスに困惑することを通じて、人間が倫理的に成熟してゆくことを可能にする、遂行的な概念だからこそ、作り出されたのです。(内田樹『困難な成熟』による)
「責任」という社会的概念について論じたこの文章は、同じく社会的概念である「民主主義」の理解にも役立ちます。「責任」の部分を「民主主義」に置き換えて読んでみてください。
2015年9月18日
お菓子がたくさん!
東京都心は、雨が降ったり止んだりの天気です。みなさん、おかぜをめしたりしていませんか。
こんにちは。穎才学院教務です。

穎才学院には、たくさんのお菓子が用意されています。写真は合宿で用意されたお菓子。
この写真に写っている量のお菓子が大抵1日で無くなっていまします。みんな、お菓子好きですね。
合宿中だけではありません。日ごろ、穎才学院にはお菓子が準備されていて、生徒も講師もお菓子を楽しみにいている人は多いです。勉強の合間の適度な休憩に活きているようです。
教務としては、お菓子を食べた後にきちんとゴミを捨てるようにと指導しています。
あとは好きに食べてくれればOK!
穎才学院でお菓子を食べて育った生徒たちが、大人になってから、お菓子や食べ物、飲み物を仲間に供することができる「大人」になってくれれば、言うことはありません。
子供のときに自分がしてもらった「贈与」を、別の誰かに「贈与」してあげる。
そうして私たちの社会は健やかにめぐっているのです。
2015年9月17日
伸びる野球選手の条件
日に日に秋の気配が深まります。みなさん、お元気ですか。こんにちは。穎才学院教務です。
9月も後半になって日本プロ野球もシーズンの佳境に入りました。今シーズンは、いわゆる「トリプルスリー」(打率3割台、ホームラン30本以上、盗塁30個以上)を達成することが確実視されている選手が2人、シーズン200本安打を達成した選手が1人。打撃部門で選手の素晴らしい活躍が続いています。
その中で、シーズン200本安打を達成した秋山翔吾選手について、スポーツ新聞で興味深いエピソードが紹介されました。
「僕のような突然変異系は30年後には『誰? あのバク転の人だよね』みたいになるから大丈夫です。普通に考えて、僕の子供とか、もっと後の人からしたら、そうなるんですよ。もし何年か(活躍が)続いて、実績が出てきたら認知されるし、名前が語り継がれるけど。今のところは(ポッと)出てきただけだから。そっとしておきましょうよ」と話したこともあった。(2015年9月16日サンケイスポーツ)
7月14日のコメントだそうです。ものすごい勢いでヒットを量産し、打率が4割に迫らんとしていた時のこと。そのときに自分自身の活躍を「突然変異」と言うところに、秋山選手の知性が感じられます。
また、「あのバク転の人」というのは、往年の西武・ソフトバンクの名選手、秋山幸二氏のことです。「西武の秋山」といえば、「バク転の秋山幸二」というのは、彼のプロ野球の歴史に対するリスペクトの表れです。
誰が考えても秋山翔吾選手の野手としての能力は高いのに、彼だけはそう思っていない。おそらく、秋山翔吾選手は「自分は(まだまだ)野球が下手だ」と思っているのでしょう。「自分は練習しなければならない」という己の未熟についての痛切な自覚がおありなのでしょう。そういう自覚があるスポーツ選手は、コーチがもう止めろと言っても、練習を続けると言われます。
また、秋山選手は「あ、この人が私のコーチだ」と直感できるのでしょう。ここでいう「コーチ」とは、別にチームのコーチである必要はありません。書物を読んで、「あ、この人のいうやり方でやってみよう」と思って、会ったことのない人を「コーチ」に見立てることも可能です。毎日の生活の中で、ふと気になった何かを、瞬間的に「お手本」として、それを身につけることができる。そうすれば、毎日の至る所にお手本あり、ということになります。ただし、そのためには日頃からいつもアンテナの感度を上げて、「コーチ(=お手本)を求めるセンサー」を研ぎ澄ましていることが必要です。
そして、秋山選手はきっと「コーチをその気にさせる」のが上手なのでしょう。コーチを「教える気」にさせるのは、「お願いします」という選手のまっすぐな気持ち、「師」を見上げる真剣なまなざしだけです。それは、秋山選手の場合、野球に対する真剣な気持ちと言っても良いでしょう。これはあらゆる「弟子入り物語」に共通するパターンです。このとき、弟子の側の才能や経験などは、問題になりません。なまじ経験があって、「わたしはこのようなことを、こういうふうな方法で習いたい」というような注文をコーチに向かってつけるようなことをしたら、これもやはり弟子にはしてもらえません。それよりは、真っ白な状態がいい。まだ何も書いてないところに、白い紙に黒々と墨のあとを残すように、どんなこともどんどん吸収するような、練習する側の「無垢さ」、コーチの教えることはなんでも吸収しますという「開放性」、それが「師をその気にさせる」ための力であり、伸びる野球選手の構えです。
秋山選手が身に備えているだろうと推測される、この三つの条件をひとことで言い表すと、「ぼくは練習したいです。コーチ、どうか教えてください」というセンテンスになります。高校時代・大学時代の数値で表せる成績や甲子園出場などの問題ではなく、たったこれだけの言葉。これが私の考える伸びる野球選手の条件です。「野球センス」と内実と言ってもいい。このセンテンスを素直に、はっきりと口に出せる人は、もうその段階で一流のプロ野球選手です。そういう選手は、チームスタッフやチームメイトをリスペクトすることが出来る、みなから信頼される野球選手になるでしょう。
逆に、どれほど実績があろうと、才能があろうと、このひとことを口にできない野球選手は「伸びない選手」です。それは長打力がないとか、守備が下手だとか、そういうことではありません。「練習したいのです。コーチ、教えてください。」という簡単な言葉を口にしようとしない。その言葉を口にすると、とても「損をした」ような気分になるので、できることなら、一生そんな台詞は言わずに済ませたい。だれかにものを頼むなんて「借り」ができるみたいで嫌だ。そういうふうに思う自分を「プライドが高い」とか「気骨がある」と思っている。そんな選手は、決して一流のプロ野球選手にはなれません。そういう選手は、チームスタッフは「下っ端」、チームメイトは「自分を活かすための踏み台」だとしか思っていません。そんな人が信頼を集めるはずがありません。
秋山選手は、きっとチームスタッフやチームメイトをリスペクトする、みんなから信頼される野球選手でいらっしゃるのでしょう。彼のこれからの一層の活躍を予祝もうしあげます。
と、書いてみましたが、関係者の方、いかがですか。この文章の内容は的を射ていますか?
もし、的を射ていたら、これからご紹介する「学ぶ力」という文章は、野球選手の育成にも有効です。
ぜひ、御一読くださいませ。
http://blog.tatsuru.com/2011/09/02_1151.php
2015年9月16日
今も昔も
秋の気配が深まってきました。みなさん、お風邪など召していませんか。
こんにちは。穎才学院教務です。

さて本日の報道に興味深いものがありました。
学校で生徒1人あたりのパソコン設置台数を増やした国ほど、成績が下落傾向にあることが、15日に発表された経済協力開発機構(OECD)の調査でわかった。
パソコンを使う頻度が高い生徒は読解力が低いという結果も出ており、教育現場でのICT(情報通信技術)の活用方法に課題が浮かび上がった。
OECDは各国の15歳を対象に読解力と数学・科学の応用力を測る国際学習到達度調査(PISA)を3年ごとに実施している。今回は2003年と12年の調査に参加した39か国の成績の変化と学校へのパソコン設置台数との関係を調べた。
それによると、オーストラリアやニュージーランド、ハンガリーなど、生徒1人あたりの設置台数を増やした国では、数学的応用力が下がっていた。一方、パソコンの設置率が比較的低い日本やメキシコ、イタリアなどは成績が上がっていた。(2015年9月16日読売新聞)
OECD(経済協力開発機構)はヨーロッパ諸国を中心に日・米を含め34 ヶ国の先進国が加盟する国際機関です。OECDなど、国際機関による教育関連調査というのは、その都度、丁寧に内容を読みとらないといけないのですが、たいていの場合、その時々の何かしらの都合にあわせて恣意的に解釈されてしまうのが残念です。
今回であれば、「学校でPC増やした国では成績が下落した。だから、ノートをきちんと取るのが大事だ!そこで、〇〇式ノート術!!」とか、「学校でPC増やした国では成績が下落した。やっぱり、スマホやゲームは良くない!そこで、スマホもゲームも禁止!」とか、そういったスピーチの素材として利用されてしまうのかもしれません。
今回の調査に拠れば、明らかになったのは、「学校でのPC等の導入が成績向上にあまり寄与しない、どちらかといえば成績を下げているかもしれない」という「学校でのPC等の導入」と「成績向上」との関係であって、「〇〇すれば成績が向上する」とか「PC等は学校内でも学校以外でも禁止すべきだ」ということではありません。少し考えれば、誰にでもわかります。
私たちが考えるべきは「子供の成熟はいかにして果たされるのか」ということであると思います。そのソリューションは「子供の身近からコンピューターを排除する」ことでも「ノートをきちんと取る」ということでもありません。
今も昔も子供の成熟のトリガー(引き金)は同じです。それは「目に映るすべてのことはメッセージ」だという感覚をもつことです。
はい、そうです。ユーミンです。
「目に映るすべてのことはメッセージ」だと思える感覚のことを、内田樹先生(今日も登場!)は「被贈与の感覚」と説明しました。
木漏れ陽は誰かからのメッセージじゃありません。ただの自然現象です。でも、ユーミンはそこに「メッセージ」を読み出した。自分を祝福してくれるメッセージをそこから「勝手に」受け取った。そしてその贈り物に対する「お返し」に歌を作った。
話は続きます。
その歌を僕らは聴いて、心が温かくなった。「世界は住むに値する場所だ」と思った。そういう思いを与えてくれたユーミンに「ありがとう」という感謝を抱いた。返礼義務を感じたので、とりあえずCDを買った(昔なので、買ったのはLPですけど。)
わかりますか?わからなくても、平気です。わからない人は多いから。というのも、私たちはこの「被贈与の感覚」を忘れがちなのです。日常のいろいろなことは、スムーズに運行して当然だと思っている。電車が定時に発車することに、郵便物や宅配便がほとんど遅配なく確実に届くことに、テレビやラジオの番組がラテ欄の通りに進行することに、私たちの多くは「感謝」しない。
ユーミンの感覚はそうではありません。
「目に映るすべてのことはメッセージ」というのは、「私のまわりのすべてのものは、私に宛てて挨拶を送っている(だから、そのすべてに私はお返しの挨拶をする義務がある)」という宣言です。
静かな木漏れ陽を浴びても何も感じない人間。
それが贈与のサイクルから「下りた」人間です。(内田樹『困難な成熟』214ページ)
贈与のサイクルから下りた人間というのは、成熟のサイクルから下りた人間です。
そういう人間のことを、私たちの世の中では「子供」と呼びます。
年をとっていても、社会的地位を有していても、「子供」は「子供」です。私たちの世の中では「子供」の割合が増えていると言われます。
それに対抗して「大人」の割合を増やしていくこと。そのためにまずは私たち自身が「贈与のサイクル」の中にきちんと入ること。それが「子供の成熟」のために私たちが取るべきソリューションです。
2015年9月15日
茂木健一郎先生のツイート
茂木健一郎 @kenichiromogi
議論の実質を一切顧慮せず、「審議時間」がx時間あれば、論点が尽くされる、という形式主義は、講義の内容を一切顧慮せず、「授業時間」がx時間あれば、単位を与えて良いという形式主義と同じですね。どちらも、本質は反知性主義である。(2015年9月15日)
個人の政治的信条について、そのコンテンツの正否はここで論じられるものではありません。
とはいえ、「講義の内容を一切顧慮せず、『授業時間』がX時間あれば、単位を与えて良いという形式主義」が、本質的に「反知性主義」に由来する、ということについて、私たち教育関係者は自覚的でなければならないでしょう。
子供の成熟は、授業時間や学習時間によって担保されるのではありません。もちろん、それは教育や学習の「効率」がよければ授業時間や学習時間が短くてもよいということではありません。
子供の成熟にとって大切なものは、何か。
それは、いまから100年ほどまえに夏目漱石が『こころ』という物語を通して世に問うたことでもあります。
夏目漱石は「青年はどうやって大人になるのか」という主題を掲げて明治末年に多くの作品を書き残した。それは単に作品の「主題」が青年の成熟であったということに止まらず、漱石自身が「欲望の中心」となり、漱石を範とする成熟の運動に読者たちを巻き込むという仕方で遂行されたのである。
「おとな」とは、「『おとなである』とは、これこれこう言うことである」という事実認知を行う人のことではない。実際に「子ども」を「おとな」にしてしまったことによって、事後的にその人が「おとな」であったことが分かる、という仕方で人間は「おとな」になる。
だから明治40年、夏目漱石が東京帝国大学を辞して朝日新聞に『虞美人草』を執筆する決意をしたとき、漱石は近代日本最初の「大人」になったのである。
(内田樹『「おじさん」的思考』による)
子供の成熟にとって大切なものは「大人」です。
そして、教育は複数の教師によって担保される集合的営為です。たくさんの先生がいて、その中の誰かが「子供」にとっての「大人」となればよい。A先生がだめでも、B先生がOKならばそれで良い。ですから、学校がすべきことは、多様な先生たちによって構成する「教師団」を組織することです。それだけで良いのです。授業内容や指導法について、その巧拙を問う必要はありません。
塾においても、基本的に同じことです。松下村塾のようにスーパーティーチャーとスーパーステューデントに拠って成り立つ塾は、例外です。教えるのが上手い先生もいれば、そうでない先生もいて良い。勉強が好きな生徒もいれば、勉強が嫌いな生徒もいて良い。怖い先生もいれば、優しい先生もいて良い。
しかし、そういった学校や塾に欠かせないのは知性をリスペクトする空気です。
知性をリスペクトする人は、自分が無知であることをきちんと受け入れられる人です。知性をリスペクトする人は、必要な知性がどこにいけばアクセスできるものなのかについて知っている人です。知性をリスペクトする人は、教える側の人間をその気にさせることのできる人です。
正確に言うと、私たちの中には、知性的な自分も反知性的な自分もいるのです。矛盾した2つの性質が共存したり、葛藤したりしている。
その中で知性的な私にきちんと光を当ててやる。そして、反知性的な自分の面倒もときどき見てやる。強い自分だけでなく、弱い自分も生きて良いのです。
そんな風にして過ごすことが出来れば、私たちは、安全に楽しく健康的に生活することができるのではないでしょうか。こういうことを言う人はあまり多くありませんが、知性は私たちの生活に欠かせないものです。
世間の悪評に対して臆病な自分、かたくなに単一的な解釈に止まってしまう自分、人を教える気にさせられない自分、そういった弱い自分が健やかに過ごせるように、まずはそういう世界を手近から作り上げていきましょう。
2015年9月14日
賢い「プリンセス」は誰??
東京都心は、気持ちの良い秋空です。板橋区もすごしやすい気温です。みなさん、ご機嫌いかがでしょうか。こんにちは。穎才学院教務です。昨日、私の友人とディズニーの物語について話をする機会がありました。
そこで、話題になったのは、いわゆる「プリンセス」たちの中で、賢いのはだれか、というものでした。
みなさんは、だれだと思われますか??
まず、プリンセスたちは、みんな「ここではないどこか」があると信じる力を持っています。
それは、ウォルト=ディズニー風に言えば「夢の力」。
今いるここではないどこかに強く憧れるのが、彼女たちの特徴なのです。実はこの「力」には良いところだけでなく、悪いところもあるのですが、そのことは今回は話しません(笑)。
そんなプリンセスの中で際立って賢いのは「ベル」だと思います。そして次点が「ジャスミン」。生粋のディズニーファンである友人も同意見でした。
まず、『美女と野獣』のヒロイン、「ベル」についてです。
彼女は本を読むのが大好きです。彼女が読むのは物語ばかりです。ですから、物語を子供向けのフィクションと侮る人にとって、ベルはあまり賢く見えないのでしょう。けれども、物語は本当に奥行きの深いものです。物語を読む人は、知性とある意味で親和的な人であると言えるでしょう。
私の説では、ベルが賢く健やかに育ったのは、親が「おバカ」だからです。父親のモーリスは、とてもいいパパですが、頭が良いとはお世辞にもいえません。発明家である彼が作り出すのはトンチンカンなものばかり。物語中では、彼の発明がベルと彼の危機を救うきっかけになるものの、それはとてもスマート(知的)なつくりのものではありません。ということで、私は「モーリス=おバカ」説を採用しているのですが、親が「おバカ」な方が子供は健やかに賢く育ちやすいと思っています。
哲学者の内田樹先生が、御息女と御自身との関係をかえりみて、御自身を「バカボンのパパ」に喩えられたことがあります。
るんちゃんからの父の日カード。これが娘から見た僕のイメージなんだとしたら、うれしいなあ。僕もバカボンのパパのように過激に生きたいです。(2015年6月24日 内田先生のツイッターより)
「るんちゃん」は先生の御息女のこと。彼女から先生に宛てて贈られた父の日のメッセージカードのイラストが「バカボンのパパ」だったのです。それについて父親としてうれしいとおっしゃる先生。
内田先生によれば、親は子供に早く乗り越えられるべき存在です。親は先生にはなれませんし、なってはいけない、というのが彼の持論です。私もそうだと思います。(私は父親になったら、家にいるときはいつもガンプラを作ったり、ゲームをしたりしているような「おバカ」なオヤジになります。「国語」なんか絶対に教えません。先生としての私みたいな理屈っぽい父親がいたら、絶対に子供は嫌でしょうから。)
そんな素敵な父親に育てられたベルは、健やかに知的に育ちました。その健やかな知性に支えられた彼女の優しさが、やがて「野獣」としての王子と彼の王国にかけられた魔法を解くことになるのです。
さて、「ジャスミン」はと言えば、彼女の優しさは楽曲「ホールニューワールド」が歌われるシーンに見て取ることができます。楽曲のラストで「アラジン」は、魔法の絨毯でランデブーしながら、彼女にリンゴの実を取って渡します。その渡し方が、とても「独特」なのですね。
アラジンは、左手でリンゴを取って、それを右肩にひょいと乗せ、肩から腕にそれを転がして、右ひじでリンゴをひょいっとはねてみせるのですが、この「無意味な動作」を見て、ジャスミンは彼がアグラバーの町で出会った「あの好青年」であったことを確信するのです。(ここのあたりにも、実は物語的に大切な構造が潜んでいるのですが、そのことについてはまたの機会に。)
ジャスミンの賢さは、宮殿で目の前に現れた「王子」が、それとは社会的立ち位置が似ても似つかない、アグラバーの町で出会った「あの好青年」であると察知する、身体的感性の高さにあります。
ジャスミンたちが生きる世界において、王子と庶民の間にはものすごい違いと隔たりがあります。普通の人なら、王子が庶民であるなんて思いもしません。でも、彼女はその間にきちんと理解の橋を架けることができた。これは、かなり高度に知的な振る舞いです。
それは、ベルも同じです。野獣としての王子が、人間の姿にもどったとき、彼女は戸惑いました。たとえ、目の前の王子がハンサムな男性であったとしても、彼女にとって大切なのは、優しい心を持ったあの野獣であるからです。しかし、彼女はすぐに気が付きます。目の前の男性が野獣と同じ、あの優しい目の持ち主だったからです。
アラジンのリンゴの曲芸、野獣=王子の優しい眼差し。彼女たちは、自分が愛するパートナーの身体が醸し出す身体的な徴(しるし)を決して見逃しません。それは彼女たちが優れて身体的な知性を備えているからなのです。
2015年9月12日
良い学校(大学・塾)の選び方
今日も晴天でした。板橋では秋祭りがおこなわれていましたね。みなさんいかがお過ごしですか。穎才学院教務です。

ここでは学校を3つに分類します。ちなみに分類は大学や塾選びの際も有効です。
1.これから入学(入塾)する人に関心が向いている学校(大学・塾)
2.今いる人の在学期間での成績伸長に関心が向いている学校(大学・塾)
3.今いる人が卒業してからにも関心が向いている学校(大学・塾)
1のタイプの学校(大学・塾)は、営業の上手な学校(大学・塾)ですね。株式会社的な学校(大学・塾)だと思います。
2のタイプの学校(大学・塾)は、教育のスパンを短く捉えている学校(大学・塾)です。自分たちのところにいる間に、子供たちができるだけ成長することばかりを目標としているわけです。
3のタイプの学校(大学・塾)は、教育のスパンを長く捉えている学校(大学・塾)です。自分たちのところにいる間に子供が成長することも、残念ながらあまり成長しないこともあるかもしれない。でも、自分たちのところでなくても良いから、どこかで子供が成熟することを望む。そのような学校(大学・塾)です。
もちろん、どの学校にもその学校なりの存在理由があります。それは尊重すべきです。
でも、私は3のタイプの学校(大学・塾)が好きです。
教育の目標は、子供たちの成熟です。それは短い時間で達成されるような簡単なことではありません。5年、10年くらいの時間をかけて、子供たちが市民的成熟を遂げるというのが、教育の目標なのです。
2015年9月11日
お祭りは大切です。
東京都心は、ひさかたぶりの晴天です。みなさま、おかわりありませんか。こんにちは。穎才学院教務です。


そろそろ中学校・高校では文化祭のシーズンです。
私は塾関係者として、文化祭シーズンは大いに文化祭の準備・当日の活動に専念していただきたい、と考えています。というのも、「祝祭」は私たち人間に欠かせない物だからです。
「祝祭」の人類学的効果については、さまざまな意見がありますが、さしあたって大切なのは「浄化」の機能です。
私たちは日常生活で「穢れ」を抱えてしまいます。それを祓い清める効果が「浄化」の機能です。
お祭りが好きな人は多いでしょう。お祭りにいくと、なんだかウキウキしたり、お祭りに参加すると「やってよかったなあ」と思ったりするというのは、よくある経験です。
それは、祝祭によって私たちの身体が浄化されているからだ、と説明することができるのです。
お祭りは、私たちが健やかに、楽しく、安全に生きるために必要な文化的装置です。だから、ぜひお祭りに参加して、穢れを祓ってしまいましょう!
それから、お祭りの当日に、子供に「お祭りになんかいっちゃダメ!宿題しなさい!」というのは、何だか変でしょう?(笑)
文化祭当日は、文化祭に専念してください。ただし、欠席連絡はお早目に!
2015年9月10日
おすすめの本
こんにちは。穎才学院教務です。関東地方は激しい降雨にみまわれました。みなさま、おかわりありませんか。

さて今日の出来事ですが、自宅の最寄駅でサラリーマン風の男性が電話でこんなことを話しているのがきこえまし
た。
「…責任とれって言われるだろうからさ、ちゃんともう一度確認しておいた方がいいよ。…」
なんだか、違和感。
男性の発言は、一見すると、コンテンツとして何の問題も無いものに思われますが、私の耳には違和感がありました。
それは、私が「責任を取る」ということについて、彼と異なる考え方を持っているからです。
「責任を取る」ということは、原理的に「不可能」です。
それでも責任という概念は私たちの社会において欠かせません。
責任を取ることは不可能なのに、責任を取るという観念が大切なのは、どうしてか。
それは「わかった。じゃあ、私が責任取るから。」という立ち位置を選びとることが出来るという、倫理的な身構え・心構えを取ることが出来る人を、私たちの社会が必要としているからです。
1990年代にテレビ東京系列で放映されたアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』には、「責任者は責任取るためにいるからな。」という台詞が登場します。「使徒」とよばれる外敵を撃退するミッションを遂行した後で、ミッション遂行中に発生した家屋・施設・機器等の損壊について、責任を取るべく始末書のたぐいを書きまくる「葛城ミサト」という登場人物のことを指して言った台詞です。「ミサトさん」のような「私が責任取るから。」と言ってくれる指揮官がいるから、ミッションは上手くいったのです。
また、やはり1990年代にフジテレビ系列で放映されたドラマ『踊る大捜査線』シリーズには、「責任は俺が取る」と言い放つ人物が登場じます。警視庁のキャリア組として管理官クラスの立場にある「室井慎次」という登場人物です。映画『交渉人 真下正義』では、室井管理官が「責任は俺が取る」と言ってくれることで、主人公である真下警視たちが、過酷な捜査に専念できることになるのです。
ミサトさんや室井管理官のような「私が責任取る」という立ち位置を選び取ることが出来る人は、大人です。我が師、内田樹はこう言います。
責任というのは、誰にも取ることのできないものです。にもかかわらず、責任というのは、人に押しつけられるものではありません。自分で引き受けるものです。というのは、「責任を引き受けます」と宣言する人間が多ければ多いほど、「誰かが責任を引き受けなければならないようなこと」の出現確率は逓減してゆくからです。
どのような社会的な概念も、人間が幸福に、豊かに、安全に生き延びるために考案されたものです。「責任」という概念もそのひとつです。(内田樹『困難な成熟』による)
「責任とは自分で引き受けるものです。」
この言葉を胸に刻んで、今日も仕事に取り組みます。
さあ、内田樹『困難な成熟』、おすすめの本です!是非、手に取って、お読みください。
2015年9月 9日
激しい降雨に御注意ください。
本日(9日)14時47分現在、東京都板橋区などに大雨洪水警報等が発表されています。気象庁の発表に拠れば、台風18号の接近に伴い、9日は雨で、昼過ぎまで雷を伴って非常に激しく降る所があるでしょう、ということです。
板橋区板橋2丁目でも、ときおり激しい降雨となっています。
一方、15時現在、都営三田線・JR埼京線・JR山手線等は平常運転されています。
ついては、本日(9日)穎才学院では天候の急激な変化に注意しつつ平常通りに授業を行います。
生徒のみなさんは、通学・通塾時に無理をすることのないよう、時間に余裕を持って行動してください。
また、急に雨が激しくなったりした場合は、決して無理をしてはいけません。遅刻・欠席の判断をした場合には、塾まで電話で連絡してくだされば結構です。
みなさん、健やかにおすごしください。
2015年9月 8日
trial and error
今日も雨です。日本列島に台風も接近しているようです。みなさま、天候の変化にはくれぐれもお気を付け下さいませ。
こんにちは。穎才学院教務です。

私は
「柔軟な身構えと心構え」を持った子供に育つよう願い続けることが大切でしょう、と即答しました。
賢さ、すなわち知性とはどのようなものであるのか、人によって解釈はさまざまです。
私は、師匠に倣って、「柔らかさ」を知性の要件と考えています。
柔らかさとしての知性の持ち主で有名なのは、マンガ『ONE PIECE』の主人公ルフィです。
彼は、身体も心も非常に柔軟です。ひとつの構えにこだわらない「強さ」と、どう対処してよいのかわからないことに対応できる「賢さ」が、彼の魅力です。
塾の子供たちが、みなさんおお子様が、ルフィ君のような、しなやかで魅力的な知性の持ち主に育ちますように。
2015年9月 7日
「本棚」をつくりましょう!
秋雨が続きます。ときおり激しい雨風になることもありますが、みなさまおかわりありませんか。
こんにちは。穎才学院教務です。

今日は出勤前に本屋さんによってきました。当初は文庫本を一冊だけ購入するつもりだったのですが、残念ながら目当ての本は在庫が無く、本を探して店内をうろうろしている間に、5冊の本を手に取ってしまいました。もちろん、即購入です。
今日買ったのは、
岩田健太郎・石川雅之 『絵でわかる感染症 with もやしもん』(講談社)
大栗博司 『数学の言葉で世界を見たら 父から娘に贈る数学』(幻冬舎)
森見登美彦 『新釈 走れメロス 他四篇』(角川文庫)
高野誠鮮『ローマ法王に米を食べさせた男 過疎の村を救ったスーパー公務員は何をしたか?』(講談社)
橋本幸士『超ひも理論をパパに習ってみた 天才物理学者・浪速阪教授の70分講義』(講談社)
です。
これから読むのが楽しみです。私が読んだら、塾の本棚(段ボール箱の再利用)に並びます。
子供たちに本を読んでもらいたいと思い、塾に本棚を設けて、1年ほどになります。最近、本を借りていく人が増えてきました。それは生徒であったり、先生であったり、生徒のお家の方であったりするのですが、本を手に取るということは大切なことだと思います。本に触れるということは、本を読むということと違うことではありますが、豊かな読書体験への第一歩には違いありません。
ご家庭に本があるというのも、お子様の読みの力・書きの力を育むために大切なことがらです。
豊かな言葉は、豊かな読書体験から。よろしくおねがいします。
2015年9月 5日
おすすめポッドキャスト
今日はスッキリと空が晴れています。みなさん、ごきげんいかがですか。
こんにちは、穎才学院教務です。

写真は合宿で楽しそうに遊ぶ中学3年生を写したものです。彼らは、板橋に帰ってきてからも、互いに仲良くしています。良いパートナーシップは、よい学習の一助となるでしょう。期待しています。
さて、先日保護者さまから、何かためになるポッドキャストはないかと質問をいただきました。
うーん。
少し考えて、「頭のよくなるポッドキャストなら知っていますよ」と申し上げて、
内田樹&名越康文の 辺境ラジオ
という番組をご紹介しました。私は毎日聞いています。
とても面白い番組なので、みなさんにもおすすめです!
2015年9月 4日
天気の急激な変化に御注意ください。
本日(4日)午後2時14分、気象庁は東京地方で竜巻などの激しい突風が発生したとみられると発表しました。東京地方に竜巻注意情報を発表されています。この情報は、本日(4日)午後3時20分まで有効です。
気象庁の発表内容は以下の通りです。
東京地方で竜巻などの激しい突風が発生したとみられます。東京地方は、竜巻などの激しい突風が発生するおそれが非常に高まっています。空の様子に注意してください。雷や急な風の変化など積乱雲が近づく兆しがある場合には、頑丈な建物内に移動するなど、安全確保に努めてください。落雷、ひょう、急な強い雨にも注意してください。
また、午後2時39分現在、板橋区などに大雨洪水警報が発表されています。天候の急激な変化にくれぐれもご注意ください。
詳しい情報は気象庁HPでご確認くださいますよう、おねがいいたします。
2015年9月 3日
「模擬試験の結果」の見方
秋雨の天気が続きます。ときおり顔を見せてくれる青空がとても美しく見える季節になりました。
みなさま、お元気ですか。穎才学院教務です。
学校では授業が本格的にはじまったころでしょうか。

穎才学院の生徒も一生懸命学んでいます。写真は合宿での集団授業の様子です。合宿が行われた志賀高原は東京より気温が低い上、教室としてしようした場所が特に涼しかったため、生徒たちはレクリエーション用に用意した着ぐるみを着て、身体を冷やしすぎないようにしながら勉強しています。
これからは体調管理もいっそう大切になりますね。
さて、世間では模擬試験が実施されたり、模擬試験の結果が返却されたりするころでしょう。中学生も高校生も、受験生は9月以降模擬試験受験の機会が多くなります。当然、受験後に模擬試験の結果が返ってくるわけですが、先日、「模擬試験の結果」の見方について質問されたので、そのことについて書こうと思います。
「模擬試験の結果」を見るとき、「前進的に推理(reason forward)」する人と「遡及的に推理(reason backward)」する人とがいます。私は、「遡及的に推理」することを薦めています。「模擬試験の結果」を見て、なぜだか上手く説明できないポイントを発見して、それを手がかりになぜそんなことが起きているのか考えるようにしているのです。
は?
と、思った方は、シャーロック・ホームズによる以下の説明を手がかりにしてみてください。
「うまく説明できないもの(what is out of the common)はたいていの場合障害物ではなく、手がかりなのだ。この種の問題を解くときにたいせつなことは遡及的に推理するということだ。(the grand thing is to be able to reason backward)このやり方はきわめて有用な実績を上げているし、簡単なものでもあるのだが、人々はこれを試みようとしない。日常生活の出来事については、たしかに『前進的に推理する』(reason forward)方が役に立つので、逆のやり方があることを人々は忘れてしまう。統合的に推理する人と分析的に推理する人の比率は50対1というところだろう。」
(アーサー・コナン・ドイル『緋色の研究』による)
どうですか?やっぱりよくわかなくても、あまり心配はいりません。というのも、このホームズの台詞の直後で、ワトソン博士は「正直、君の言っていることはよく理解できないのだが。」と困惑しながら言うのです。
ワトソン博士は19世紀のイギリス人医師です。そんな彼がよくわからないと言うのですから、ホームズが言っていることはやはり簡単なことではありません。
でも、ここでホームズはなんだか大切なことを言っている気がしませんか?その直感は正しいと思います。
彼が言うように、前進的に推理することより、遡及的に推理する方が私たちにとっては有効な知性です。それは、そういうことをした方が私たちの脳が活動的になるからなのですが、こういう説明をする人は世の中にあまり多くありません。
「あるはずのないものがある」とか、「あるはずのものがない」とかいうようなことに気が付き、それについて考えを深めることができるタイプの知性は、非常にレアなのです。でも、このようなタイプの知性の持ち主がいないと、私たちヒト(ホモ・サピエンス)は生き延びることが出来なかったはずです。
「あるはずのないものがある」とか、「あるはずのものがない」とかいうようなことに気が付き、それについて考えを深めるという行為、つまり「うまく説明できないもの(what is out of the common)」を手がかりに考えるということ自体は、ホームズが言うように、そんなに難しいことではありません。しかし、そういう考え方がありうるということを理解するために、少なからざる言語的知性を必要とするのです。そこさえ上手くクリアできれば、みなさんもホームズのようなレアな知性の持ち主になることができるでしょう。
そういえば、「模擬試験の結果」の見方について話していたのでした。
模擬試験の結果を見るときに、前進的に推理するというのは、「合格判定」に関心を寄せたり、「自身の偏差値」と「志望校の偏差値」との差異に執着したりするというような仕方としてあらわれます。これはこれで有効なこともあるのですが、このような推理の仕方というのは、いわば50人中50人の人が出来る仕方なので、わざわざ他人を頼る必要はありません。
模擬試験の結果を見るときに、遡及的に推理するというのは、模擬試験の結果の中から「うまく説明できないもの(what is out of the common)」を見つけることから始まります。「何で英語と数学はできているのに、国語ができていないのか」とか、「どうしてこの設問だけきちんと解答できたのか」とか、そういったことを考えるのです。そのためには偏差値などがしるされた個票だけを見ているのでは不十分です。返却された答案用紙や、日ごろのその方の身構えなど、さまざまなことを手がかりとしながら、「あるはずのないものがある」とか、「あるはずのものがない」とかいうことについて考えを深めていくのです。
2015年9月 2日
2015年度2学期スタート
秋めいた日が続いたと思うと、今日は空気がとても蒸し暑いです。みなさん、健やかにお過ごしでしょうか。
ご無沙汰しておりました。穎才学院教務です。
穎才学院では、9月1日から2学期平常授業が始まりました。
月曜日から金曜日は17時30分から22時まで(一部の授業は16時から)、
土曜日は15時から21時まで授業を行っています。
5Fの自習室スペースは日曜日をのぞく15時から授業終了時間まで利用できます。最近、熱心に学習する生徒が増えてきました。とはいえ、座席はありますので、ご利用を希望の方は是非ご相談ください。
また5Fでは、受験生を対象としたグループ授業も始まりました。グループ授業といっても2名から5名程度の少人数授業です。
夏休みの合宿に参加するなどして、仲良くなった生徒たちが、今後学習面で切磋琢磨してくれるだろうと期待しています。
写真は夏合宿の様子です。中学3年生の要望に応えて、講師が理科を教えています。授業内容は電流についてですね。
どうして、シャンプーハットのようなものをかぶっているのでしょうか。よくわかりませんが、ジャック・ラカンの精神分析に拠れば、教育において教師が蔵した謎は、学習者の学びの欲望を点火し得るわけですから、これはこれでよいでしょう。実際、学習している生徒たちは、理科の学習が進んだようです。模試でも良い結果が出るでしょうね。
一方、3Fの個別授業スペースは連日満員御礼です。
ついては、座席数増加のため、8月から本郷3丁目に新校舎をオープンいたしました。
詳細は今後お伝えいたします!