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2013年7月18日

スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳)

master (2013年7月18日 14:53) | トラックバック(0)
みなさん、こんにちは。穎才学院教務です。じりじりと日差しの強い日になりました。みなさま、お元気でしょうか。

さて、スコット・フィッツジェラルド『グレート・ギャツビー』(村上春樹訳、中央公論新社)と原書”The Great Gatsby”を読みました。フィッツジェラルドの『グレート・ギャツビー』は、非常に魅力的でイノセントな弱さを抱えた青年「ジェイ・ギャツビー」の生きざまを「ギャツビー」の家の隣に住む「僕(ニック・キャラウェイ)」が物語る、というアメリカで最もポピュラーな青年小説の一つです。

非現実なくらいに魅力的な青年「ジェイ・ギャツビー」は、彼の抱えるある種の「弱さ」ゆえに、坂を転げ落ちるように破滅します。この「宿命的に滅びてゆく、弱く魅力的な青年」は語り手「僕」の「アルターエゴ(別人格)」である、と言われます。

文芸評論家の内田樹は、村上春樹の『羊をめぐる冒険』がレイモンド・チャンドラーの『ロング・グッドバイ』の東洋的リメイクであり、『ロング・グッドバイ』は『グレート・ギャツビー』のリメイクである、ということを指摘しています。さらに、『グレート・ギャツビー』にも先行作品があって、それはフランスのアラン・フルニエが書いた『ル・グラン・モーヌ』です。

実際に『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』を読むと、『ロング・グッドバイ』での「アイリーン」と「テリー・レノックス」との関係が、『グレート・ギャツビー』での「デイジー」と「ギャツビー」との関係とよく似ていることに気付きます。「レノックス」が「アイリーン」の犯した「殺人」の罪を着て「死ぬ」ことで空虚な恋に結末をつけるという物語の構造は、「ギャツビー」がアモラルな「デイジー」との退廃的な関係に自らの「死」を以て決着をつけるという物語構造とそっくりです。

内田先生は、青年の精神的な成熟について、「成熟というのはおのれの未成熟を愛し、受け容れ、それを自分の中に抱え込んだまま老いていけるような人格的多面性のことなのだ」と語ります。『グレート・ギャツビー』をはじめ、同系の青春小説のなかには、このような青年の精神的な成熟についての根源的なメッセージが込められている、と言うのです。

「おのれの未成熟を愛し、受け容れ、それを自分の中に抱え込んだまま老いていける」というあり方が、人間的成熟であるということは、多くの文学で繰り返し物語られています。アーシュラ・K.ル=グウィンの『影との戦い』(「ゲド戦記」)で、「ゲド(ハイタカ)」が「二つの声は一つだった」と気付いたことも、吉本ばななの「キッチン」で「私」が「雄一」や「えり子さん」との生活の中で気付くことも、これと同じことです。

「おのれの未成熟を忌み嫌い、退け、自分から切り離そうとする」ようなあり方を選びとるのは、決して賢明な選択ではありません。そのようにして、自分の「影」の部分を忌み嫌い切り離そうとしても、本来それは自分の「光」の部分と一身のようなものなのです(「二つの声は一つであった」のです)から、必ず自分のもとに帰ってきます。おのれの未成熟をめぐって「罪悪感や後悔は乗り越えた!次に進むぜ!」と言って、新しい強い自分へと成長する自己を標榜しても、乗り越えたはずの「弱さ」は必ずその人のところに戻ってきます。これは、太古から繰り返し物語られる神話的構造であり、人類学的真理です。

では、どのようにして私たちは、おのれの未成熟を愛し、受け容れるのでしょうか。内田先生によれば、「自分の(半身としての)弱さ」を同じように身にまとった青年と出会い、その人を失うということを経験して、その「死んだ青年(=自分の弱さ)」の思い出を自分の身体の中に刻み込んで生きていくことを選びとったときに、私たちは成熟への旅程を前に進んでいくのです。

『ワンピース』(集英社)という漫画で主人公の「ルフィー」は、「シャンクス」という青年が自分のために片腕を失くすという出来事を経験して、「シャンクス」との別れ際に、海賊になって「シャンクス」を越えると決意します。このエピソードを青年小説の構造を援用してテクスト分析すると、「シャンクス」は「ルフィー」のイノセントな弱さの象徴で、「シャンクス」との別れは、「ルフィー」にとって、シャンクスの疑似的な「死」です。『グレート・ギャツビー』の「ギャツビー」は「シャンクス」にあたり、語り手「僕」は「ルフィー」にあたるのです。『グレート・ギャツビー』と『ワンピース』との大きな違いは、『グレート・ギャツビー』が青年の死で物語を結ぶのに対して、『ワンピース』が青年の疑似的な死で冒険の幕が上げられるという点でが、成長の物語(ビルドゥングス・ストーリー)としては同様の構造を含んでいる、と言えるでしょう。ちなみに、私は『ワンピース』を5巻までしか読んでいないのですが、私の推論が正しければ、「シャンクス」は生きていても「ルフィー」には直接的に会っていないはずです。もし、会ってしまったら「ルフィー」の成長が停止しかねませんし、それは冒険物語の終焉を意味しますから。ご愛読の方、いかがですか?

「死んだ青年(=自分の弱さ)」の思い出を自分の身体の中に刻み込んで生きていく、という選択が成熟の条件であることを、レイモンド・チャンドラーは『ロング・グッドバイ』で、村上春樹は『羊をめぐる冒険』で物語りました。『ロング・グッドバイ』と『グレート・ギャツビー』がアメリカで最もポピュラーな青年小説であることと、村上春樹の『羊をめぐる冒険』(英題“A Wild Sheep Chase”)がアメリカで人気を博していることとは決して無関係ではありません。

また、”The Great Gatsby”の英語は、精密に織り込まれた唐綾模様のように、繊細で美しい響きを持っています。村上春樹は”The Great Gatsby”におけるフィッツジェラルドの文体について、

空気の微妙な流れにあわせて色あいや模様やリズムを刻々と変化させていく、その自由自在、融通無碍な美しい文体についていくのは、正直言ってかなりの読み手でないとむずかしいだろう。

と言っています。また、音読するとわかるのですが、フィッツジェラルドの英語には音楽的なリズムがあります。例えば、”The Great Gatsby”の末尾は、

So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

ですが、これは読んでいてとても心地よい響きを持った英文です。私はフィッツジェラルドの肉声を聞いたことがありませんが、おそらく彼は、腕のよい楽器職人が心を込めて作ったチェロが奏でる音のような、豊かな響きをもった声をしていたのではないでしょうか。

村上春樹が、「独特のアロマやまろみや舌触り」の「デリケートなワイン」に喩えた、”The Great Gatsby”でのフィッツジェラルドの文章の美しさは、そのような音楽的な美質をぬきにしては語ることのできないものでしょう。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ... And one fine morning -
 So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.

先に引用した一文は、上のような文脈で物語られたものです。はっきり言って、大学受験レベルの英語学習を経験した人なら、ほとんど知らない英単語は無いはずです。でも、この英語を日本語にして深みを味わい、理解するのは、村上春樹の言うとおり「正直言ってかなりの読み手でないとむずかしい」でしょう。

村上春樹は、”The Great Gatsby”の翻訳作業について、「僕は要所要所で、小説家としての想像力を活用して翻訳をおこなった」と語りました。

もし僕が作者であればここの部分はどういう風に書くだろうと想像しながら、フィッツジェラルドの、時としてポイントがスリッパリーに(滑りやすく)なっていく文章を、ひとつひとつ掘り起こしていった。その確かな骨子と美しい枝葉を、できるだけ丹念に腑分けしていった。必要があればより長いレンジをとって文章を解釈するようにもした。そういう作業なしには、フィッツジェラルドの文章はその本来の力を発揮できないように思えたからだ。

このような想像力を活かした翻訳時の姿勢を、村上春樹は「文章世界の懐に思い切って飛び込んでいく」ような姿勢であると表現しています。村上春樹は『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」で”The Great Gatsby”の翻訳に「全力を尽くした」ことを繰り返し強調していますが、彼が「全力を尽くした」という言葉を使うというのはとても珍しいことです。いつもの村上春樹なら、文章表現に力みが入って言葉のリズムや表現の美しさが失われるのを避けて、別の表現を探すような気がする(「アボガド」とか「革靴」とかで喩えたりするのではないかと思う)のですが、『グレート・ギャツビー』の「訳者あとがき」では、そのまま「全力を尽くした」という表現を選びとる、というくらいに魂を込めた翻訳作業だったのだろうと思います。

最後に、もう一度”The Great Gatsby”の終わりの部分と、村上春樹によるその翻訳を。

Gatsby believed in the green light, the orgastic future that year by year recedes before us. It eluded us then, but that's no matter - to-morrow we will run faster, stretch out our arms farther ... And one fine morning -
 So we beat on, boats against the current, borne back ceaselessly into the past.


ギャツビーは緑の灯火を信じていた。年を追うごとに我々の前からどんどん遠のいていく、陶酔に満ちた未来を。それは、あのとき我々の手からすり抜けていった。でもまだ大丈夫。明日はもっと速く走ろう。両腕をもっと先まで差し出そう。……そうすればある晴れた朝に―
 だからこそ我々は、前へ前へと進み続けるのだ。流れに立ち向かうボートのように、絶え間なく過去へと押し戻されながらも。

私たちにとり、日本語を読むときにも、英語を読むときにも、人と関わるときにも、大切なのは「相手の懐に飛び込んでいく」ような姿勢と、それを可能にする「想像力」なのでしょう。英語を学習するときにも、綺麗な英語の発音や留学体験で身に付いた口語表現の運用だけでなく、読み手として他者と関わる「想像力」を大切にしていきたいものです。

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