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2013年7月16日

志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)

master (2013年7月16日 21:39) | トラックバック(0)
こんにちは、穎才学院教務です。蒸し暑い日が続きます。少し暑さは和らいできたようですが、みなさまいかがおすごしですか。

志水宏吉『学力を育てる』(岩波新書)を読みました。志水宏吉先生は、教育社会学者で大阪大学人間科学研究科教授です。志水先生と私との出会いは、志水先生がご子息と私が大学で同級生となったというご縁で、ご自宅での餅つき大会にご招待いただいたことでした。私が東京大学教育学部に進学した年に、大阪大学に転任されました。直接ご指導をいただく機会は、ほとんどなかったのですが、御本をいただいたり、いっしょにサッカーをさせていただいたり、たいへんお世話になりました。

2000年前後に勃発した「学力低下論争」をめぐってさまざまな議論がおこりました。「ゆとり教育」を標榜して学校での授業時間を減らそうとする諸派や、「確かな学力」の必要性を主張して教育内容の積み増しを断行する勢力など、さまざまな政治的な力学が働き、学校で学ぶ子どもたちや現場の教員が翻弄されました。

自分が「ゆとり世代」と呼ばれる世代に属すると信じる大学生の中には、他の世代の人と自分との差異というごくありふれた偏差を、「ゆとり世代」という特異性に由来する宿命的なものと捉える人たちがいます。数年前に東京大学の文化祭で、ある音楽部の発表会を聴きに行ったとき、東大生が自分たちを「ゆとり(=ゆとり世代の学生)」と称したり、「成績が悪い・学力が無い」ということを僭称するような名乗りをしていたのを見て、私は寒気がしました。彼らがしていたことは、大学生が身内で「俺、バカだから」と遜るような姿勢とは全く異なります。彼らがしたのは、発表会という、聴き手へ良い音楽を贈るための集まりで、音楽と関係のない自身の素性を語り始める、というような不躾な振る舞いです。さらに、東京大学の学生しか構成員になれない音楽部の発表会で、そのような名乗りを臆面もなく披露するというのは、「ゆとりの東大生です」「東大生だけど成績が悪い・学力が無い」と言っているのであって、「国立大学で世間のお金を使って学んだからには、社会に貢献しよう」という道義的義務の免除をこっそりと申し出るような卑しいあり方だ、と思います。1968年の駒場祭で橋本治の「とめてくれるな おっかさん 背中のいちょうが 泣いている 男東大どこへ行く」というキャッチコピーが象徴した、背中に仁義を背負った東大生の姿はどこへやら。「音楽サークルでの青春を謳歌したいなら、どうぞご勝手に、でも品の無い発表会を垂れ流すはやめてね」と息巻いてしまいました。

もちろん、「ゆとり世代」と呼ばれる世代に属する若者たちの中には、大学にいっていようがいっていなかろうが関係なく、立派に学んだり、働いたりしている方たちがいます。2000年代に、文教政策の混乱から、学校で生徒や教員が翻弄されたのは事実ですが、歴史を見れば、学校が翻弄された時代は他にもたくさんありますし、翻弄されようがされまいが関係なく、まっとうに成熟していく若者たちがきちんといることは忘れてはいけません。

志水宏吉先生の『学力を育てる』では、そもそも「学力」をどう捉えるべきか、「学力」を育てるために学校や地域はどのような役割を果たすべきか、といったテーマについて社会学的アプローチを使って切り込み、子育ての共同性を回復する方法を模索します。

子どもの育ちや若者の成熟は、「共同的」な場の中で起きるものだと言われます。「共同的」でない家庭では子どもは育ちにくいし、「共同的」でない社会で暮らす若者はなかなか成熟しない。ここで「共同的」という言葉は、「世の中でみんなでまとめて面倒をみよう」と言うようなブリコロールな生活の仕方を指すものです。「おなかをすかせているなら、こっちにおいで、いっしょにごはんを食べよう」とか、「わかんないなら、仕方ないよ、できるようになるまで、うちでしっかり修行しな」とか言うような、「お節介なおばちゃん」のするようなアプローチの仕方が、子育てと教育には欠かせません。

志水先生は「学力」を「樹」に喩えました。樹は大地に根付き、お日様の光を浴びて、地に根を張って水や栄養を吸収しながら、いろいろなバクテリアや動物たちと暮らします。「学力」の高い子どもや若者、つまり人間的に豊かな子どもや若者を「樹」に喩えることもできるでしょう。彼らは、学校・大学(あるいは会社)や地域に根付き、社会に伝承された良き文化に包まれながら、周りの人の愛情や叱責を受けながら、いろいろな生き物や人間と暮らします。志水先生は「学力」を育むことのできる「力のある学校」を「社会関係資本が高度に蓄積された学校」、「信頼関係のネットワークが重層的にはりめぐらされた学校」と呼びました。樹が豊かに育つように、人間的に豊かに成熟した人は、やがて家庭や地域や職場で、人々と「世の中みんなでまとめて面倒をみよう」という関わり方を選択するようになります。自分の力をみんなのために使うということが当り前のようにできるような、優れた公的感覚を持ち合わせた人に、条件が整えば、子どもや若者は育ちます。その条件とは、私たちが子どもや若者のために「世の中みんなでまとめて面倒をみよう」という在り方を選び取っていること、これにつきるのではないでしょうか。

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