2013年7月13日
森見登美彦『四畳半王国見聞録』読了
master (2013年7月13日 14:45) | トラックバック(0)こんにちは、穎才学院教務です。蒸し暑い日になりました。みなさま、おかわりありませんか。
さて、森見登美彦先生の『四畳半王国見聞録』(新潮文庫)を読みました。『四畳半王国見聞録』は、京都東山のふもとにあるという「法然院学生ハイツ」に住む奇妙奇天烈な愛すべき人間たちをめぐった物語です。
僕の小説を読んで、「これを書いてる人はどういう人だろう」と思う人も多いかもしれませんが、多くの人が思っているほど、僕は小説そのままの世界観を生きているわけではないんです。そこに到達したいと思い小説を書いているとき、僕の「内なる虎」が目覚めているときにそこに迫るんだけれども、書き終わってその虎が眠ってしまうと、もうわりと普通に戻るというか。
森見登美彦先生は、小説を書くことについて、インタビューに対してこのように答えました。森見登美彦先生が言う「内なる虎」が目覚めている状態というのは、作家が書いているうちに「筆の運びが乗ってくる」というような状態のことでしょう。
「まあ、わかるまい」とカーネル・サンダースは言った。
「わかるわけはないと思ったけど、礼儀としていちおう訊いてみたんだ」
「ありがとさん」
村上春樹『海辺のカフカ』下巻 128ページ
文芸評論家の内田樹は、新潮文庫の100冊「ワタシの一行」キャンペーンで、村上春樹の『海辺のカフカ』の紹介を担当し、この部分を引用しました。
『海辺のカフカ』の中では星野青年とカーネル・サンダースの対話がとにかくグルーブ感最高で、どの行を引用してもよかったんですが、とりあえず目に付いたので、これを。
内田先生が「グルーブ感」とよんだテクストのリズムは、物語の息遣いのようなもので、よい物語が必ず持っているのは、この読み手に取って心地よい息遣い(=「グルーブ感」)です。2003年に『太陽の塔』(新潮社)で森見登美彦先生がデビューされて以来、森見文学のファンが愛するのは、森見登美彦という作家の「文体」です。
それにしても、いったいいつまでカンカン叩いているつもりであろう……。
やけっぱちか。戦友によびかけているのか。それとも、どこか遠くで暮らす幻想の乙女へ、果たされざる逢引を約束するモールス信号でも送っているのか。そういった腰の据わらない輩は、幻の秘薬、樋屋奇応丸を服用するがよい。
このような「グルーブ感」のある文章は、凡人にはなかなか書けません。このような文章は、頭で書くものではなく、身体で書くものだと思います。身体が、何かと共鳴するように、動き出していて、その身体の運動に筆の運びを任せて、どんどん書いていくのでしょう。そのようなときの身体の感覚を、森見登美彦先生は「内なる虎が目覚めている」状態だと言ったのだと思います。
森見登美彦先生の本は、そのような「グルーブ感」のある文章、すなわち読み手の身体に響く文章の集合体です。お店の中に色々な良い雑貨が置かれていて、お店の中を歩いていると、歩く人の心を捉えてしまうような名品珍品に必ず出会える。そのようなお店と似ていて、森見登美彦先生の本を読むと、読み手の身体に響くエピソードに必ず出くわします。
そして、森見登美彦の「文体」は、読み手にとり読みやすいものです。「常に余計なものを発生させる」という人間の生活を「熱力学第二法則」との戦いと喩えても、「白川通り」や「百万遍交差点北東角」といった京都市街の通りや交差点の名前を使って物語世界を説明しても、熱力学を知らない人間にも読みやすく、京都の地理に明るくないひとにとっても読みやすいのは、森見登美彦の「文体」の魅力のひとつです。
『夜は短し歩けよ乙女』(2006年、角川書店)でも『聖なる怠け者の冒険』(2013年、朝日新聞出版社)でも、存分に京都市街をめぐる物語を描きながら、京都に馴染みがあまりない人にも読みやい文体で物語はすすみます。『四畳半王国見聞録』でも、物語の舞台は京都大学の近辺であることは間違いないのですが、それは実際の百万遍、白川通りの風景とは異なる趣きをもつ世界です。『夜は短し歩けよ乙女』を読むと、そのことがよくわかりますが、森見登美彦の「文体」によって描き出される京都市街は、実際の京都市街とは異なる、読みやすく物語られた「異世界(パラレルワールド)」なのです。『夜は短し歩けよ乙女』に出てくるバーのモデルとなったというバーがあります。もちろん、そのお店はそのお店としてよいバーなのですが、森見登美彦の「文体」を通して「異世界」を読んだ人には趣きの異なるものである、と言われます。それは仕方のないことです。むしろ、私たちは実際に存在するバーと、森見登美彦のリーダブルな「文体」によって描かれた「異世界」のバーと、二つのよいバーを楽しむことができるのですから、しあわせです。森見登美彦の「文体」は、読みやすい(リーダブル)な文体によって、読み手によき世界を届けることができるのです。
物語の持つ「グルーブ感」と「リーダブルな文体」、森見文学のエクリチュールが多くの読み手を引きつけてやまないのは、やはり必然でしょう。
ところで、私の『夜は短し歩けよ乙女』(角川文庫)は、「行方不明」になりました(泣)。帰ってこないかなあ。良い本は、いつでも手元において読みたいものです。
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