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2013年6月27日

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』読書中

master (2013年6月27日 14:57) | トラックバック(0)
こんにちは。穎才学院教務です。今日は、空のてっぺんまで透き通るようなきれいな青空になりました。みなさまは、ごきげんいかがですか。

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』読書中。もったいないので、心が落ち着いて、身体が『多崎つくる』を読みたいと言うときにだけ、本を開いています。

結果、私が『多崎つくる』を手に取り本を開いたのは一度だけ。5月8日夜から9日未明にかけてだけです。たぶん、私はこの『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』という物語をひたすらゆっくりと読んでいくのだと思います。

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』の冒頭では、名前の中に「色」をあらわす字を持たない主人公「多崎つくる」と、彼の4人の友人とのエピソードが物語られます。「多崎つくる」の4人の友人は、名前に「色」をあらわす字(赤・青・白・黒)を持っていて、「多崎つくる」が大学生になってしばらくして、彼の前から突如として姿を消してしまいます。正確に言うと、彼との交友関係を彼らは一方的に断絶してしまうのです。

そして、物語の冒頭には、「木元沙羅」という「多崎つくる」の2歳年上の恋人があらわれます。彼と彼女の関係は、多かれ少なかれ順調であり停滞しています。ちょうど、私たちの身のまわりの、たいていの関係がそうであるように。

私が5月8日夜から9日未明にかけて読んだのは、「多崎つくる」が4人の友人との理不尽な絶交を経験したことが物語られ、「木元沙羅」と「多崎つくる」との関係が描写される、というところまでです。

ここまで、私は物語に引き込まれながら、いっきに読み進めていきました。でも、私はそこで本を閉じました。それは私の身体が、そこから先に読み進めていくことに対して、ブレークダウンを設けることを求めたからです。

「多崎つくる」の友人との絶縁ような、「身近な人間の喪失」の物語は、多かれ少なかれ私たちにとって、切実で大きな物語です。いつまでも一緒にいるだろう、と信じていた仲間が、突然、去っていったり、心のよりどころとしていた人が急にいなくなったりする、というような理不尽な出来事に直面し、とまどい、身も心も深く傷つき、そのことが後の人生に小さな、でもはっきりとした、陰を落とす、ということが私たちにはあるものです。

「多崎つくる」の物語は、「木元沙羅」の言葉をきっかけに、訳のわからない絶交(絶縁)という形で彼にさしむけられた出来事を、「多崎つくる」が「聖地」(おそらくは各地に散らばった4人の旧友のもと)を訪れることで、物語りなおす、というものになるのだろう、と私は思っています。

『色彩を持たない多崎つくると彼の巡礼の年』は、「理不尽な別れ」に傷ついた人間が、時間を経て、自分の人生を物語りなおすことによって、その傷を癒す、という物語なのだと思います。

最後に、あまり読書が得意でない、という方へ。

本を読むということは、とても楽しいことです。文学に親しむことは、私たちにとり、とても大切なことだと言われています。中国の歴史家である王沈によれば、魏の時代の人、曹操は昼は国家経営に励み、夜は本を読んで倫理・道徳を学び、一方で、文学に親しむことを部下にも奨励し、景色の良いところに赴けば詩を作り、音楽に乗せてそれを歌い上げたそうです。実際に彼の遺した漢詩を読むと、力強さと憂いの同居した、人間的な奥ゆかしさを感じずにはいられません。武人であり、且つたくさんの文学を愛し、それを身に付けていた人だからこそ、詠い得た詩である、と思います。

村上春樹ほどのポピュラーな作家になると、彼の本を持っている、彼の本のタイトルを知っているというだけで、本を読み味わうことの代わりにするような人々がいるだろう、と思います。でも、それはあまりに勿体ないことです。これまで文学にあまり親しみがなかったという方には、一生懸命に仕事をしたあとの時間に、たくさん勉強したあとの時間に、少しずつの時間、本を手にとって、自分自身の身体を通してそれを丁寧に味わい、文学に親しまれることをおすすめいたします。ぜひ、ともに物語を読む楽しみを味わいましょう。

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