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2013年12月31日

「彩りの豊かな人生」に向けて~大学受験生に贈る言葉

哲学者の内田樹先生は、12月30日付けのブログ記事として「コミュニケーション能力とは何か」という文章を発信されました。
以下に要旨を掲載します。

「コミュニケーション能力」とは何か
・コミュニケーション能力とは、コミュニケーションを円滑に進める力ではなく、コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力である。
・それは「ふつうはしないことを、あえてする」というかたちで発動する。
・コミュニケーションとは臨機応変に、即興で、その場の特殊事情を勘案して、自己責任で、適宜、コードを破ることである。
・そして、コードを破る仕方はコード化できない。当たり前のことである。
・しかし「臨機応変で事態に処することのできる力は生物にとって必須の能力であり、それを涵養することが教育の本務である」という合意は私たちの社会にはもう存在しない。求められているのは「すべてを列挙した網羅的マニュアル」の整備と、「決して自己決定しないで、逐一上位者に諮って、その指示を待つ」人間の育成である。
・このような病が蔓延したことによって「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という人間が生き延びるためにもっとも必要な力が致命的に損なわれたからである。
・わが国のエリート層を形成する受験秀才たちはあらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する仕事には長けているが、正解が示されていない問いの前で「臨機応変に、自己責任で判断する」訓練は受けていない。
・だから、秀才たちに制度設計を委ねると、その社会が危機を生き延びる可能性は必然的に逓減する。
・「立場が大きく異なる者同士が互いにわかり合えずにいる」のはそれぞれがおのれの「立場」から踏み出さないからである。「立場」が規定する語り口やロジックに絡め取られているからである。
・それは「わかり合う」ためには「立場」が定めるコードを適宜破ることが必要だというコミュニケーションについての基礎的知見が共有されていないということである。
・「あなたは何が言いたいのですか。わからないので、しばらく私の方は黙って耳を傾けますから、私にわかるように説明してください」と相手に発言の優先権を譲るというのが対話のマナーであるが、このマナーは今の日本社会では認知されていない。
・今の日本でのコミュニケーションの基本的なマナーは「自分の言いたいことを大声でがなり立て、相手を黙らせること」である。相手に「私を説得するチャンス」を与える人間より、相手に何も言わせない人間の方が社会的に高い評価を得ている。そんな社会でコミュニケーション能力が育つはずがない。

「相手に私を説得するチャンスを与える」というのは、コミュニケーションが成り立つかどうかを決する死活的な条件である
「説得」というのは、相手の知性を信頼することである
説得するためには対面している相手の知性に対する「敬意」をどんなことがあっても手放してはならない。そして、先ほどから述べている「コードを破る」というふるまいは相手の知性に対して敬意を持つものによってしか担われない
・コミュニケーションの失調を回復するために私たちは何をするか。「身を乗り出す」のである。相手に近づく。相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく。相手の懐に飛び込む。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよい。それが相手の知性に対する敬意の表現であることが伝わるなら、行き詰まっていたコミュニケーションはそこで息を吹き返す

かつて凡庸な攘夷論者であった坂本龍馬は開国論者である幕臣勝海舟を斬り殺すために勝の家を訪れたことがあった。勝は龍馬を座敷に上げて、「お前さんたちのようなのが毎日来るよ。まあ、話を聴くがいいぜ」と世界情勢について長広舌をふるった。龍馬はたちまち開国論に転じ、その場で勝に弟子入りしてしまった。龍馬を「説得」したのは、勝の議論のコンテンツの正しさではない(龍馬には勝が語っていることの真偽を判定できるだけの知識がなかった)。そうではなく、自分を殺しに来た青年の懐にまっすぐ飛び込み、その知性を信じた勝の「誠」である。

幕末の逸話をもう一つ。
山岡鐵舟が江戸開城の交渉のために駿府に西郷隆盛を訊ねて東海道を下ったときの話。薩人益満休之助ひとりを伴った鐵舟は、六郷川を渡ったところで篠原國幹率いる官軍の鉄砲隊に遭遇した。鐵舟はそのままずかずか本陣に入り「朝敵徳川慶喜家来山岡鐵太郎総督府へ通る」と大音あげて名乗った。篠原は鐵舟のこの言葉を受け容れて、道を空けた。
鐵舟と篠原では立場が違っていた。ロジックが違い、コードが違っていた。コミュニケーションが成立するはずのない間柄であった。けれども、鐵舟はそこに奇跡的に架橋してみせた。
鐵舟はあえて「朝敵」と名乗ることによって、篠原に次のようなメッセージを送ったのである。あなたがたから見たら私は殺すべき相手であろう。私はそれを理解している。あなたの立場であれば、それは当然だろう。だが、その判断を機械的に適用することを今いっときだけ停止してはもらえまいか。判断を留保して、「目の前にいるこの男の言い分にもあるいは一理あるのかもしれない」という仮説的な未決状態を採用してはもらえまいか。現に私は幕臣であれば決して口にすることのない「朝敵家来」という名乗りをなしているではないか。私は私のコードを破った。あなたはあなたのコードを破ってはくれまいか。
篠原に向かって鐵舟はそう言って「身を乗り出して」みせたのである。コミュニケーションを架橋したのは鐵舟の「赤誠」である。
私はこのような力をこそコミュニケーション能力と呼びたいと思うのである。

この文章に添えて、大学受験生に贈る文章。
 確かに、大学入試センター試験をはじめとした大学入試は、おしなべて「あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する」技術を洗練することで、上手く通過できるように設計されたものです。ですから、大学入試センター試験をはじめとした大学入試では、暗記したものを上手く正確にアウトプットするような受験技術の獲得が、得点する上で有効です。
 ただ、そのような「あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する」技術を洗練するという訓練は、受験生のみなさんにとって虚しく辛い訓練かもしれません。それは、「あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する」技術を洗練することだけで他者と彩り豊かな人生を歩むことができないことをみなさんが知っているから虚しいのであり、「あらかじめ問いと答えがセットになっているものを丸暗記して、それを出力する」技術を洗練することにより、「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」という人間が生き延びるためにもっとも必要な力が損なわれているとみなさんの身体が感じとるから辛いのです。すなわち、みなさんは「どうしてよいかわからないときに、適切にふるまう」ことのできる力が、人間が生き延びるためにもっとも必要なものであり、そのような力を持った人が魅力的な人間であるということを身に染みて理解しているのです。
 みなさんは、大学受験を終えて大学生となり、就職活動などを経て、一人前の大人として他者と関係を取り結びながら生活していくようになるでしょう。そのときに大切なのが、「コミュニケーションが不調に陥ったときにそこから抜け出す力」であることは、およそ間違いのないことです。「身を乗り出」して「相手に近づく」、すなわち「相手の息がかかり、体温が感じられるところまで近づく」、つまり「相手の懐に飛び込む」。「信」と言ってもよいし、「誠」と言ってもよいような、相手の知性に対する敬意の様態を選びとることは、みなさんにとって非常に心地よいことでしょう。そのようにして行き詰まっていたコミュニケーションが息を吹き返すとき、みなさんの身体は他者のそれと呼応して正しく振動し、みなさんはみなさん自身の身体に力が漲るのを感じるはずです。みなさんが、大学受験や就職活動などを経て、そのような人生の彩り豊かな時期に歩みを進められることを願ってやみません。

 

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