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2013年10月11日

「人物評価」による受験者選抜と「身銭を切る教育」

master (2013年10月11日 16:01) | トラックバック(0)
こんにちは、穎才学院教務です。

さて、本日(10月11日)の毎日新聞朝刊で、「国公立大入試 2次の学力試験廃止 人物評価重視に」という記事が掲載されました。

大手検索エンジンから本blog記事に辿りつかれる方がいるとしたら、その方はこの記事をめぐり違和を感じた方であるはずでしゃう。検索エンジンのアルゴリズムを推測し、行動心理学の理論に拠れば、そういったことが予測されるのです。

まずはご安心ください。世の中は、良くも悪くも、そう簡単には変わりません。今回の記事をきっかけとして、私たちの生き方やお子様の学び方を大きくシフトチェンジする必要はありません。

ただし、今回の記事内容は、私にとって何かしらの気味の悪さを感じさせるものでした。それは村上春樹の『1Q84』で主人公の「天吾」が「猫のまち」に行ったときに感じたような不気味さです。『海辺のカフカ』で「田村カフカ」くんが「森の中」で「二人の兵隊」に出会ったときに感じた違和のような、気持ち悪さだと言ってもいいでしょう。

みなさんもお感じになった今回の記事をめぐる違和について、数学者の森田真生さんは

「大学が面接で『人物評価』を重視し出すとなると、いよいよ『株式会社』と何が違うのかがわからなくなってくる。既存の大学教員に『人物』を『評価』される程度の人材しか集まらないのは、大学としてマズいのではないか。」

と指摘しています(10月11日、twitter.com/orionis23による)。さらに森田さんは、

「『人物評価』などと上から目線で言われたら、優秀な人ほど反発して、大学に行かなくなるか、あるいはすごい勢いで海外に流出していくのではないだろうか。」

と続けています。

これについて、内田樹先生は、

車中で「株式会社化する大学」という原稿を書き上げた後にTLを見たら国立大の二次試験で学力考査を課さないというニュースに森田君が『それじゃ株式会社だ』と書いていました。ほんとにね。日本の大学が本気で生き延びようと思うなら政府と官僚とメディアの命じることにNoと言うしかないです。

と応答しました(10月11日、twitter.com/levinassienによる)。さらに内田先生は続けます。

「株式会社化する大学」を送稿。僕の結論は「教育の主体は人間の寿命を超える幻想的な生物でなければならない」というものです。大学人の仕事はその長い生命をもつ生物に自分の心身を「委ねる」こと、その「依代」となることです。自己利益の増大をめざす人間は教育にかかわることはできません。

「私たちはもう一度学校教育の主体を株式会社および株式会社的にしか思考できない個人から、もっと寿命の長い教育共同体の手に取り戻さなければならない。それは具体的には個々の教育機関であり、少し広めに取れば地域社会であり、国民国家であり、大きく出れば人類である。 」

「こういうことを言うと『青臭いことを言うな。株式会社的に思考して、今期の黒字を確保しなければ、市場から淘汰されて、われわれの学校には中期も長期もないのだ』といきりたつ人がいるかも知れない。なるほど。私からの答えは『だったら、止めろよ』ということである。」

「はっきり言うが、身銭を切ってでも学びの場を創り出さなければならないという覚悟のない人間は今の時代にはもう教育に携わるべきではない。別の仕事を探した方がいい。厳しい言い方になるが、私はほんとうにそう思っている。 」


内田先生がおっしゃる「身銭を切ってでも学びの場を作り出さなければならないという覚悟」というのは、本当にきれいごとではありません。現代という時代において、少なくとも日本では、子供の学びのために身銭を切ることのできる大人がいる共同体でなければ、子供の学びはなりたたない、と私は考えています。

塾業界の人間がふざけたことを言うなと、お思いの方がいるでしょうか。穎才学院では、塾の責任者が身銭を切って子供たちの学びや生活を支えています。これは塾生・講師は全員が知っていることです。穎才学院以外でも、私はいくつかの「子供の学びのために身銭を切ることのできる大人がいる」塾を知っています。

この話は塾に限りません、小学校・中学校・高等学校も保育所も幼稚園も、大学も専門学校も、営利目的の法人・非営利目的の法人を問わず、子供の学びに関わる機関は、これからすべからく「子供の学びのために身銭を切ること」が必要になるでしょう。

雨が降った日に濡れた子供の身体をタオルで拭いてやったり、おなかがすいた子供に少しお菓子とお茶をだしてあげたり、修行中の若者のために朝ごはんを買ってきて一緒に食べてあげたり、子供や若者が辛い思いをして傷ついたときには、自分のことは後回しにしてでも、きちんと心をかたむけて話を聞いてあげたりするような、手間のかかった心配りというものが、子供の学びには欠かせません。そんなことをしているうちに、自然と子供ときちんと関わる大人は身銭を切るようになるものです。

また、内田樹先生の言う「教育の主体」としての「人間の寿命を超える幻想的な生物」については、『他者と死者 ラカンによるレヴィナス』(文春文庫)で詳しく語られています。『他者と死者』で内田先生が言うように、「存在するとは別の仕方で存在する」ものによって私たちは成熟へと導かれます。レヴィナス師が『存在するとは別の仕方で』という書物で説き明かしたことは、ご先祖様を大切にしてお墓参りを欠かさないお彼岸の日の私たちの有り様や、土地におられる神様を祀る祭礼を地域のみんなで楽しむ夏祭りや秋祭りの際の私たちの心がけにも見て取れるような、生きていくうえでとても大切な姿勢の成り立ちです。

子供は大人によって評価されるのではなく、「人間の寿命を超える幻想的な生物」によってこの世に迎えられ、正しく導かれていくのです。お釈迦様もイエス様も、レヴィナスもカントも、紫式部もシェークスピアも、それぞれの物語り方でそのような大切なことを物語っています。

このように、「人物評価」による受験者選抜という前述の記事内容をめぐって私たちが感じた違和は、決して間違ったものではありません。

丁寧に手間をかけて、きちんと子供たちの成熟を見守りたいものです。

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